65.支度
平日の午前。あいにくの雨だったが、区役所内の空気は暖房でやや乾燥していた。
番号札のディスプレイがひとつ進むたび、電子音が鳴る。おれたちは並んでベンチに座り、ディスプレイの数字が進むのを黙って眺めていた。
順番が来た。受付の窓口で、封筒から婚姻届を出す。係の女性が丁寧に角を揃え、添付書類を一枚ずつめくった。
「本籍と署名の確認をいたしますね。……はい、大丈夫です」
視線が届出の下段で止まる。同じペン、同じインク、別々の筆跡。
――婚姻後の夫婦の氏は、〈夫の姓〉にチェック。
「それでは、お預かりします」
ゴム印が台に落ちる鈍い音。次いで、係の人が顔を上げた。
「受理しました。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
――停止条件は、音もなく外れた。
それだけで、胸が少し熱くなる。
受理証明の紙を封筒に戻し、外へ出る。
「やっと、ここまで来た」
ぽつりとつぶやく。
「ありがとう、思歩。おれと結婚してくれて」
「こちらこそ。契約と……私と向き合ってくれて、ありがとうございます」
もう、憂いはない。支度に取りかかろう。
レセプションの時期はもう近い。彼女の装いを決める頃合いだ。
*
金曜の午後に休みを取った。思歩と待ち合わせて、百貨店へ向かう。
上階のプライベートサロンは静かだった。
白木の床と間接照明。新しい布の匂い。係の女性に予約を伝え、思歩と並んで中に入る。
係の女性が、ジャケットやワンピースを運んできた。
濃紺、ボルドー、サンドベージュ。
どれも彼女に似合うだろうが、今回はブラックタイ級の準礼装。女性はロングのイブニングドレスを想定されている場である。
今でこそ女性のジャケットスタイルは珍しくないが、それなりの理由を求められるだろう。あまり攻めた格好にはできない。
「黒か、紺か、グレーがいいと思う。明るすぎないほうがいいな。おれは君に合わせる」
「じゃあ、濃紺を……」
試着室のカーテンが閉まる。
時間の経過が妙に長く感じられる。自分のタキシードだけならば、用途を伝えて二、三点を見繕ってもらい、採寸を計り直すだけで済むのだが。
だが、嫌ではなかった。ただ待つだけの時間は少し落ち着かなかったが、不思議と心地がよかった。
カーテンが開き、思歩が現れる。
ミッドナイトブルーのショール襟ジャケット。拝絹の艶めきが光を拾い、一つボタンのくびれから黒のシルク・カラムがまっすぐ床へ落ちる。
彼女の姿に釘付けになったまま、言葉が出なかった。
「似合います?」
そう言って、何かを迎え入れるかのように、両手をすっと前に差し出す。喉もとで一粒のダイヤが小さく瞬く。
「……ああ。とても。すごくきれいだよ」
思歩は微笑んで目を伏せる。その仕草は、祈りのようにも見えた。
おれは思歩の正面に立つ。内ポケットから、白い小箱を取り出した。今朝受け取ったばかりの結婚指輪だ。
彼女の左手をすくい上げ、左の薬指に指輪を滑らせる。
思歩はしばらくその指輪を見つめていたが、ふと視線を上げた。
「あなたの指輪は?」
おれがもう一つの小箱を差し出すと、思歩はおれの左手を取り、薬指へと指輪を収めてくれる。一瞬だけひやりと冷たいが、すぐ体温に馴染んだ。
心臓が高鳴っている。これは緊張でも、欲望でもなかった。ただここにある幸せを自覚して、かみしめるような感覚だった。
思歩は指先で指輪を軽く回しながら言った。
「……指輪、当日もつけていっていいですか?」
「つけててくれないと困るな。妻と紹介する女性が結婚指輪をつけてなかったら、おれが嘘つきになっちゃうだろ」
彼女の笑顔が何よりも眩しい。
係の女性に伝票とカードを革のトレイごと渡す。
「仕上がりは一週間後でございます。プレスは前日の朝にもう一度かけてお持ちします。お届けはご自宅でよろしいでしょうか」
「お願いします」
係が奥に下がる。会計が通るまでの間、おれはジャケットの内ポケットから小さなミント缶を取り出した。思歩が、少し目を見開く。
「まだ持ち歩いてるんですか、それ?」
「うん。カフスボタンは入らなくてね。何を入れようか迷ってて」
思歩は一瞬考えてから、言った。
「万年筆用のカートリッジインクなら入るのでは? あとは予備のボタンとか」
「なるほど。そうしようかな」
そこで、係が戻ってきた。
「お待たせいたしました。カードと控えでございます」
トレイからカードと控えを受け取る。
外に出ると、雨は止んでいた。雨で洗われた空気は、冬の寒さも相俟ってすがすがしい。濡れた舗道が夕暮れと街灯を映し返し、街並みはどこかきらめいて見えた。




