64.衝動・葛藤・合意
結納と、両家との会食はつつがなく終えた。略式の結納は、短い口上、目録、受書のみ。指輪の箱が卓上に置かれ、家族書を交わす。受方の――野江田家の意向で、簡素に済ませた。
その足で、普段使いの結婚指輪を選びにいく。
店員が、白いトレイに次々とリングを並べていく。プラチナやピンクゴールド。シンプルなストレート、ウェーブのかかったライン。装飾一つとっても、ミルグレイン、飾り彫り、鎚目加工など多様だ。
「たくさんありますね……」
「君に任せるよ。おれには強い希望がないから……毎日見るものだ。君が気に入ったものが一番いい」
思歩は薬指に載せ替えては黙り込んでいる。付けては外し、外しては置き、また同じものをつける。そうして、別のリングと見比べる。
相当迷っているのが伺えたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「……これにします」
店員は微笑んで、リングを並べて見せる。
艶消しの白金。女性の指輪には小さなダイヤが一粒埋め込まれている。二つが隣り合うと、揃いなのだとわかる。
鍛造仕上げは傷に強い。日常使いにも向いているし、このデザインなら仕事の際も目立ちすぎないだろう。思歩らしい選び方だ。
刻印を決める。イニシャルは入れず、入籍予定日と〈PLEDGE〉――誓い。どちらかといえば、ドライな言葉だ。縛るとか、守るといったニュアンス。紙や言葉で自分自身を拘束する感じ、といえばいいか。
だが、おれたちにはぴったりの言葉だと思う。
注文書に刻印の内容を記す。
受け取りは三週間後だ。
そのまま解散するには、夜が少し深かった。
「少し遅くなったね。今日は泊まっていく?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
鍵を開けて中に入る。玄関灯が灯って、外より一段あたたかい空気が押し寄せた。
リビングの暖房温度を少し上げる。
「先に、お風呂に入るといい。冷えただろう」
給湯パネルを押すと、電子音が短く鳴った。
「はい。お借りしますね」
バスルームの戸が閉まるのを見届けてから、おれは寝室へ向かう。寝具を引っぱり出して、ベッドメイクを済ませておく。
シャワーの音が止み、しばらくして戸が開いた。
思歩は髪をクリップでまとめ、スウェットの袖を少し折っている。
「お風呂、上がりました。どうぞ」
「うん。ありがとう」
おれはシャワーだけで短く浴びる。
上がったあと、スマートウォッチをつけようとして、充電が切れているのに気づいた。適当にドライヤーを当てて、タオルを首にかけたまま寝室へ。入る前に一度ノックする。
ドレッサーの前に、思歩が座っている。鏡越しに目が合った。
「ノックしなくてもいいのに。ここあなたの部屋なんですから」
「君の部屋でもある」
思歩が少しはにかむ。
「何か探してるんですか?」
「充電ケーブルを。どこだったかな」
ベッド脇の引き出しを開けて探す。コードの束を手繰っていると、背中のほうで椅子がわずかに軋んだ。
「髪、まだ濡れてますよ」
振り向く前に、彼女の手がそっとおれの前髪に触れた。肩にかかったタオルが持ち上げられ、うなじの水気をやさしく拭われる。彼女のシャンプーの匂いが、自分のものと混じり合う。
――離れたくない。
にわかに湧き上がった衝動を深く抑え込む。息を深く吐いてから、おれは口を開いた。
「……君は、まだ、契約を辞められるよ」
「ここまできてそれを言います?」
本当にそうだよな。
でも、何も言えなかった。タオルが頭から取り払われる。
思歩は黙っておれを見つめていた。少しだけ呆れているだろうか。だが、咎めの色はない。ただ、おれの真意を測るように、まっすぐと。
先に目を逸らしたのはおれだった。思歩は、静かに言った。
「そうしたいなら、今ここにはいませんよ」
「……うん」
彼女を抱きしめると、身体がゆっくりとあたたまっていくのを感じて、ほっとする。彼女の体温に触れると、言葉のどれもが薄っぺらくなり、現実味を失っていくようだった。
「……思歩」
彼女はおれの腕の中で、不思議そうにこちらを見上げてきた。
視線がぶつかる。
きれいだ。ずっと、そう思っていた。
「好きだよ、思歩。……愛している」
親指の腹でそっと彼女の頬をなぞり、すぐに離した。
――ああ、駄目だ……。
彼女は、もっと大切にしたい女性なのに。
おれがゆっくり体を離すのを、思歩が不思議そうに目で追う。
「どうしました?」
おれは答えられないまま、両手で目元を覆った。
理性が警告する。
これは慰めだ。一時の逃避だ。お前は彼女を利用しようとしている……。
「どこか痛みますか?」
「ちがう……」
噛み殺しそこねた息が漏れる。手のひらに熱がこもる。こうでもしなければ、この両手で彼女に掴みかかってしまいそうだった。
掴んでしまったら、きっと傷つけてしまう。
衣擦れの音がして、思歩の気配が近くに寄った。
どんどん近づいてきて、彼女の手がおれの肩に触れる。
彼女の額が、目元を覆うおれの手の甲にあたる。彼女の体温と香りを間近で感じて、おれは呼吸を忘れた。
「あ。しほ、だめだ……」
「何がだめなの? ほんとに、あなたって人は……」
目元から手が外され、彼女の目をまともに見てしまう。
ああ……かわいいな。かわいい……。
そのかわいい顔が近づいてきて、ゆっくりと唇が重ねられる。
一瞬、世界が音を失う。
何も考えられなくなる。
彼女の息がわずかに震え、そのまま数センチの距離で呼吸が絡む。
――頼む、いかないでくれ……。
「なあ、思歩。わかるだろう。結婚しなければ、契約も無効にできるんだ。君は……君は、まだ……」
「私も愛しています、時仁さん」
名前を呼ばれて、ふつりと何かが切れた。彼女の身体を掻き抱いて――そのまま、深く口づける。
どう見られたって構わない。このままでいたい。すべてがどうでもよかった。
離れたくない。
――消えたくない。
やっと彼女を放すと、思歩は息を切らしておれの胸にくったりと額を預けた。その髪を指ですきながら、おれはつぶやいた。
「君が悪いよ、思歩」
「……ええ。ぜんぶ私が悪いの」
顔を上げたその目に、微笑が宿る。その笑顔に吸い寄せられるように、また唇を重ねる。今度はそのまま、彼女をゆっくりとベッドに横たえた。彼女に覆いかぶさるように見下ろして、つぶやく。
「悪い子だ。本当に」
*
ゆっくりと髪を撫でられる感覚で、おれは目を覚ました。
寝起きの目は、まだ焦点が合わない。見えなくても、この温かさは思歩のものだとわかった。
「……おはよ」
「おはよう。よく眠れました?」
「うん」
窓の外はもう明るい。カーテンの隙間から差し込む光が、天井をやわらかく照らしている。
「朝ごはん、できてますよ」
「いつの間に……?」
「本当にベッドだとぐっすり寝ちゃうんですねえ」
思歩がおかしそうに笑う。その姿を、どこか眩しい気持ちで見つめた。
――もう、逃してあげられないな。
彼女と過ごすようになる前に一体どうやって生きてきたのか、まるで思い出せない。
すでに取り消せなくなった現実がそこにあった。




