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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第6章 確認・その他

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63.プレナップの締結

 一月らしい澄んだ冷気が頬に触れる。晴れた午後だった。

 建物の影に入ると、背広の襟元を指で整える人たちの姿が目に入る。


 公証役場の入口は目立たない。表札のように刻まれた金属板と、事務的なガラス扉。その手前には、もう思歩がいた。


「お待たせ」


「いいえ、十分前ですから」


 やはり、スーツだった。上はジャケットを羽織り、下は落ち着いたワイドパンツ。フォーマルというよりは、戦闘服みたいだった。


 自動ドアを抜けて受付に向かう。思歩が事前予約の旨を伝え、必要書類を差し出した。


「こちらの契約書案を、公正証書として作成していただきたいのですが」


「確認いたします」


 ガラスの奥の事務室では、年配の男性が机上の書類を眼鏡越しに黙々と読んでいる。


 名を呼ばれ、応接スペースに通される。合板のテーブルに椅子が三つ。書類の入った封筒をテーブルに出すと、思歩が隣に腰かける。

 やがて公証人が現れた。


「拝見しました。事実関係や意思に争いがなければ、公正証書として作成可能です。

 ただし──ご承知かと思いますが、婚姻前の契約については、法的にすべてが有効となるとは限りません。

 特に、将来の生活費、監護、扶養に関する部分は、婚姻後の実情に照らして無効と判断されるケースもあります」


「承知しています。条項ごとに、民法上の限界は認識した上で、証書の形式にしておきたいと思いまして」


「それならば、よろしいでしょう」


 公証人はうなずき、本人確認の質疑へ移る。


 本籍、氏名、住所、生年月日。免許証とマイナンバーカードを提示しながら答える。


「おふたりとも、日本語での理解に支障はありませんか」


「はい」


「この契約は、自発的な意思に基づいて作成されていると理解してよろしいですか」


「はい」


 そこから、公証人が契約書案を読み上げ、細かな表現を一部確認・修正する。思歩が用意したUSBメモリからデータを提出すると、公証人側でフォーマットが整えられていく。


「こちらが契約の内容ですね。ご本人確認のうえで、署名・押印をお願いします」


 紙の束が置かれ、内容に齟齬がないか目を通す。何度も読み返した条文だった。目次、脚注、但し書き──すべてを一緒に話し合った。


 契約書は五ページ。目次、条文、付帯条項。


 ──家計と収入の分担、財産の帰属・特有財産、負債と保証。


 初めて話し合ったのは、生活費についてだった。おこづかいの話を渋ったのを覚えている。もし彼女と結婚するのであれば、いずれ数字ごと晒すものだったのに。


 だが、思歩は深入りしなかった。人前で話すことではない、と言った。

 思えば、このときだ。彼女の知性に敬意を覚えたきっかけは。


 ──相続・遺言。子の監護、医療に関する意思表示。そして、情報共有とプライバシー。


 この話は重かった。おれの〈最期〉を前提にする話に耐えられず、ワインを飲みすぎて醜態を晒してしまった。


 それでも、思歩はおれから離れなかった。「恋人になりたい」と懇願したおれに、「自分の意志で、あなたを受け止めたい」と言った。あの言葉に、どれほど救われたか。


 ──離婚時の清算と紛争解決。


 最初は怖かった。まだ仲を深めてもいないのに離婚の話をするなんて、という気持ちがなかったわけじゃない。


 だが、いざその話し合いをするときには、心は驚くほど凪いでいた。恋人として仲が深まったからではない。信頼するからこそ、終わりの話をするのだとわかったからだ。


 破綻を出口にするのではない。破綻しかけても、相手の隣に留まり続ける覚悟を決めた。


 だからもう、迷いはない。


 おれはペンを取った。親指に刻印の浅い段差が触れて、無意識になぞる。

 書き始める前に一度だけ、思歩の顔を見た。思歩もこちらを見た。その表情はやわらかい。ただの確認だったのに、それだけで胸が軽くなるようだった。


 ペン先が紙をなぞる音が部屋に響く。彼女もサインを終えた。


「では、次に実印を……」


 朱肉のついた印が押され、ひとつ、またひとつと印影が増えていく。


 形式とは、奇妙なものだ。どれほど内心が揺れていようと、目の前の紙には一切記されない。ただ印影と約束が残るだけだ。


 ──だが、確かに残る。


 婚前契約書は、拘束ではなく取り扱いの合意だ。どう愛せばいいかが揺らいでも、どこまで信じ合うかは言葉で決められる。


 そう確信できたのは、相手が思歩だったからだ。


 最後に、公証人の署名と押印が加わり、謄本が一通渡される。

 思歩が現金をトレイに載せるのを、おれは隣で静かに見ていた。



 外に出ると、冬の陽が傾き始めていた。

 公正証書が入った封筒を抱え直す。この紙束が、おれたちの「契約」であるということが、不思議に思えた。


 思歩と並んで歩きながら、おれは契約の前文を思い出していた。


 (ほん)契約(けいやく)は、(こう)(おつ)婚姻(こんいん)(とどけ)市区町村(しくちょうそん)において受理(じゅり)された()停止(ていし)条件(じょうけん)として効力(こうりょく)(しょう)じます。


 停止条件──初めて契約が有効になる条件のことだ。つまり、おれたちが婚姻届を出さない限り、婚前契約書は効力を持たない。


 効力には猶予(ラグ)がある。今なら、まだ選び直せる──()()()()()()こともできる。

 傲慢だ、とは思う。この期に及んで何を考えているのか。だが、それでも、これが公平だ。

 まだ取り返しがつかないわけでは、ない。

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