62.年の瀬
ダイニングテーブルがはがきで埋まった。クリスマス前はいつも年賀状に追われる。
おおむね六十前後。取引先、会社、親族、古い友人・知人。宛名ラベルと差出人印字を使う。手書きのひと言だけは外せないが、さほど多くはない。
発展を祈念し、指導・鞭撻を乞い、自愛を促し、本年もよろしくと締める。指は考える前に走る。身体が覚えている定型文だ。
ここ数年で、特別な言葉を使うことと、気持ちを込めることはまったくの別物なのだと理解し始めている。
書き損じを横にやる。
差出人の欄に書かれた自分の名前を見て、ふと手が止まる。署名を左に詰めすぎかもしれない。その気づきが何を意味するのか、思い至るのにしばらくかかった。
――二人分の名前を書くには、余白が狭すぎる。
そう思った瞬間、馬鹿みたいに胸が熱くなる。努めて冷静に、はがきを裏返す。
野江田家の住所を住所録に追加する。カードがカチリとリングに収まる音が気持ちいい。
一段落ついたころ、衝馬にビデオ通話を入れた。
日焼けと笑い皺。相変わらずくたびれたTシャツを着ている。
『生きてるな』
「それはこっちのセリフだ。――年賀状を捌いてるところだよ」
『飯に付き合えばいいのか』
「はは。説教の声だな」
『違うが? さっさと用意しろ』
「わかったよ」
インターホンが鳴る。モニターに配達員の顔が映るのを確認してエントランスを解錠すると、数分後に玄関のチャイムが鳴る。
受け取った紙袋から、温かい湯気と出汁の匂いが立ちのぼった。焼き鯖の折詰と豚汁、浅漬け。皿に移す発想はない。テーブルの端に紙袋ごと置いて、画面をこちらに向け直す。
「いただくよ。……いつ向こうへ行くんだ?」
『年明け早々に。二ヶ月は戻らん』
「二ヶ月? 二年の間違いだろ」
笑いまじりにぴしゃりと言うと、衝馬が肩をすくめる。
『今回は通信環境が怪しい。既読がつかなかったらそういうことだ。母さんと親父に言っといてくれ』
「なあ、そういうのはまだ早いんじゃないか、〈義兄さん〉」
『やめろ。鳥肌が立つ』
ビールを一本開ける。泡が音を立てて、すぐ静かになる。
『そっちはどうだ』
「年が明けたら動くよ。いろいろ」
『ふーん。お前にしては言いよどむな』
「はじめてやることだからな」
『妹を頼む、とは言わんよ』
「言わないのか」
『言うまでもない』
お互い、少しだけ笑う。
通話を切る直前、衝馬がいつになく真顔になって手を上げた。
『じゃあな。良いお年を』
「ああ。来年も生き延びろよ」
画面が暗くなる。
静けさが戻ったキッチンで、もう一缶ビールを開けながら、ぽつりと言葉が漏れた。
「あいつは、行くところがあるのが似合うな」
おれはそうじゃない。どこかに留まって、積み上げるのが性に合う。――そんな自分を、何度恨んだか知れない。
でも、それでいい。それでよかったのだ。今は、なおさら。
*
クリスマスは、思歩と過ごした。
夕方、丸の内のイルミネーションを歩いた。
早めのディナーは、肩肘張らないビストロ。
一通り食べ終わり、デザートを待つタイミングで、プレゼントを差し出す。
「クリスマスプレゼントだ。開けてみて」
思歩がリボンをほどいて蓋を上げる。白いサテンの上にあるのはネックレスだ。極細のプラチナチェーンに、トップには小さな石が一つ。
「すてき。シンプルで合わせやすそうですね」
毎日つけてほしいと思って選んだことは、心にしまっておく。
思歩が髪をかきあげて自分で留める。鎖骨の上で石が小さく揺れた。指先でトップの向きをそっと整え、首筋の留め具に触れて位置を確かめる。
似合う――その短い言葉を口に出す前に、彼女が微笑った。
やがて彼女は小さな紙袋を取り出した。それをおれに差し出して、静かに言う。
「私からは、こちらを」
「君からもくれるの? 嬉しいな」
紙袋から細長い化粧箱を取り出し、蓋を開ける。深い藍の革。コバはほのかに艶を帯び、裏面には極小のレバーが仕込まれている。時計の純正ストラップだ。
「これは……」
おれは咄嗟に、左腕に視線を落とす。四角いケースに、飾り気のないモノフェイス。今は裏返して文字盤を隠しているから、ただのブレスレットにも見える。
「今つけている時計に合うと思います。……私が婚前契約を持ちかけたあのバーでもつけていましたよね」
「そうだけど……よく見てるなぁ」
ハンカチを敷いてから、その上で時計を外した。裏側の小さなレバーを引くと、金具が外れて革が軽く揺れた。片側をラグに差して、レバーを引いたまま反対側も嵌める。指が覚えている作業の速度に、思歩が少しだけ驚いた顔をしているのが見えた。
「レセプションにもつけていけそうだ」
思歩の目元がやわらいだ。
帰宅。灯りを少しだけ落として、ダイニングテーブルに小さな卓上ツリーを置く。そして、クリスマスらしい赤のキャンドルを一本だけ。マッチの火が一瞬だけ明るく跳ねてキャンドルに火を移し、やがて静かな光の芯になる。
冷蔵庫を開けると、ガトーショコラの4号が一つ。あとはやはり炭酸水と調味料ばかりなのを思歩に見咎められた。
「また空っぽになりましたねえ」
「年末だから」
「年中でしょう」
言いながら、思歩は持ってきた袋からちゃっちゃと詰めていく。卵、牛乳、ヨーグルト、青菜、味噌。
二人で暮らしていくための家事の手ざわりが、少しずつ増えていく。それが無性にうれしい。
ケーキを分け合って食べて、キャンドルの火を消す。
そのタイミングで、箱をひとつ、テーブルに滑らせる。
「もう一つ、渡したいものがある」
小さくて角の丸い化粧箱――指輪だとすぐに察したらしい思歩が、テーブルの上で重ねた指をきゅっと合わせ直した。
蓋を上げる。細い白金のアームが真っ直ぐに伸び、極小の爪が均等に石を抱いていた。シンプルながら、視線を惹く輝きがある。
「君との契約を、一生をかけて履行します。――結婚してくれますか」
「……はい」
おれが手を差し出すと、思歩は左手を重ねてくれる。その薬指に、婚約指輪をはめる。リングはわずかに緩いが、ちゃんとそこに収まった。
「あとでリサイズしよう」
「……今は、このままがいいです」
指輪からいつまでも目を離さないまま、思歩は微笑んだ。




