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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第6章 確認・その他

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61.鷹津家への挨拶

 タクシーから先に降りた時仁さんは、運転手に会釈し、思歩に手を差し出した。その手を取り、地面に降りる。見上げると、坂の上に黒い瓦屋根があった。鉄と木を組んだ門に近づくと、〈鷹津〉と書かれた重厚な表札が目に入った。


「静かですね」

「子どもたちが来ていれば、もう少し賑やかになるんだけどな」

「甥っ子さんや姪っ子さんですか」

「ああ」


 門扉に近づくと、向こう側に五十代半ばほどの女性が立っているのが見えた。濃紺のワンピースに薄灰のエプロン。彼女はこちらに気が付くと、ぱっと顔を明るくして、急ぎ足でやってきた。

 きびきびと門を押し開ける所作に無駄がない。


「あらまあ! おかえりなさいませ、時仁さま」


「ただいま。……お久しぶりです、小田(おだ)(わら)さん。先の昼餐会ではスーツの手配をありがとう。助かりました」


「とんでもないことでございます。それがわたくしのお仕事ですもの」


 それから思歩のほうへ向き直り、丁寧に一礼する。


「本日はようこそお運びくださいました。野江田さまでいらっしゃいますね。わたくし小田原と申します。家政を取り仕切っております」


「はじめまして。野江田 思歩と申します。お世話になります」


「恐れ入ります。お手土産はこちらでお預かりいたしますね」


 小田原さんは、差し出された紙袋を、用意の行き届いた黒塗りの盆にそっと移し替える。そして、ふっと目尻をやわらげた。


「旦那様も奥様も、応接室にてお待ちでいらっしゃいますよ。待ちきれないご様子で。……坊――いえ、時仁さま、どうぞこちらへ」


 思わず口に出かかった「坊ちゃん」が、ここでの長い年月を物語る。彼が小さく苦笑すると、小田原さんもおかしそうに微笑を返す。そうしてこちらを先導しながらゆっくりと歩き出した。敷石には砂一つ落ちていない。朝のうちに掃き清められたのだろう。


 玄関先では「コートをお預かりいたしますね」と自然に手が伸びる。動線の一つひとつが、ここが〈家〉として長く整ってきた場所であることを静かに伝えていた。


 玄関をくぐると、沈香の匂いが薄く漂っていた。磨かれた床板の上を歩く音が、思ったよりも遠くまで響く。


 広い廊下の先で、障子がすっと開いた。


 淡い灰桜の小紋に薄墨の帯。年齢より若々しい身のこなし。目元には温かさこそ宿っているが、前に立つと自然と背筋が伸びるような人だった。

 ――時仁さんのお母さまだ。


「遠いところをはるばるどうも。お会いできて嬉しいわ」

「こちらこそ、お会いできてうれしく思います。野江田 思歩と申します」


 お母さまは目だけで「まあ」と笑みを寄せ、浅く会釈した。


「さ、こちらへ」


 案内された応接室は、端正な和室だった。床の間には墨の抽象画、障子越しの冬光が白く差し、畳の目が淡くきらめいて見えた。

 漆の卓の手前で座を勧められ、時仁さんと並んで腰を下ろす。


 目の前には、時仁さんのお父さまが座っている。濃紺のスーツに薄灰のタイ。白髪の混じる髪をきちんと撫でつけている。


 盆を手に小田原さんが入室し、湯の香りとともに煎茶が置かれる。


「はじめまして、野江田 思歩と申します。直接お目にかかるのは初めてですが、いつもお世話になっております」


 お父さまがこちらを真っ直ぐに見た。


「君のお父上――野江田先生とは、何度かお会いしている。娘さんがいらっしゃると伺っていたが」


 返ってきた低声には、装飾がない。


「弁護士になったそうだね。素晴らしいことだ」

「身に余るお言葉、恐縮です。先生」


 お父さまは目を細め、わずかに口角を上げた。


「婚前契約を交わすと聞いているが、それは本当かね」


「はい。互いの責任を明確にして、円滑に暮らすための合意を取りました」


 その視線を、正面から受ける。

 お父さまは短く「なるほど」と言ってから、わずかに目を細めた。


「家は法だけで維持できるものではない」


 ふ、と視線を落とす。お父さまが湯呑に手を伸ばすところだった――右手薬指の第一関節にペンだこがある。


「承知しています。それでも、関係が維持できれば、家も続くだろうと私たちは考えています」


 お父さまの視線がほんの少しだけ動いた。


「理想主義だな」


「明瞭に共有できる理想は、いずれ現実になります」


 お母さまが小さく息を洩らした。微笑の気配。お父さまは喉の奥でひとつ笑い、表情を戻す。


「気骨がある」


 外の光が雲に遮られ、部屋の温度が少し下がったように思えた。

 お父さまが、こちらを見る。


「少し、尋ねてもよいかな。野江田さん」


「はい」


「時仁は少々……頑固な性格でね。変わってほしいと思うこともあるんじゃないかね」


 ほとんど無意識に、時仁さんのほうをちらと伺った。彼の表情は変わらなかったが、ほんの少しだけ眉を上げたようだった。何を問われているかわからないという顔だ。


 思歩は答えを考えなかった。はっきりと首を横に振った。


「いいえ。変えようとは思いません。ただ、傍にいたいと思います。たとえ彼が何もいらないという()()をしても」


 心なしか、お父さまの表情が、ごくわずか柔らかくなった気がした。


「……そうか。それなら、よかった」


 その言葉には、判決のような響きはなかった。ただ静かに肯定が広がっていく。


「籍を入れる日が決まったら、知らせなさい」


 お母さまもまた、嬉しそうに頷いてくれる。

 時仁さんは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。思歩もそれに倣う。


「ありがとうございます」


 お母さまがゆったりと口を開いた。


「野江田先生によろしくお伝えくださいね。素敵な娘さんとのご縁に感謝いたします、と」


「はい。必ず」と時仁さんが言う。


 廊下に出ると、空気がひんやりと背中にまとわりついた。小田原さんが静かに玄関まで案内してくれる。

 外に出る。高台の上の風は、思ったよりも強い。


「……緊張しました」

「おれも」


 石段を下りかけて、思歩がふと振り返る。

 屋敷の二階の一室に、灯りがひとつだけ点っている。


「二階は、あそこだけ灯りがついていますね」

「ああ、父の部屋だね。いつも何かを読んだり書いたりしている」


 坂を降りる。白い息が並んで、前に流れる。


「……籍の日取り、考えましょうか」

「ああ。——あのペンを使おう」

「はい」


 交わした言葉は短い。並んで歩幅を合わせる。それだけで、今は充分だった。

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