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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第6章 確認・その他

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60.署名の道具

 一週間はあっという間に過ぎる。野江田の家に挨拶へ行ったあの日曜から、もう五日経った。


 金曜の夜、「土曜は朝から一緒に過ごしたいから」という名目で、時仁(ときひと)さんは部屋にやってきた。

 夕食を済ませ、簡単にシャワーを浴びて歯を磨いたら、早々にソファに横になってブランケットにくるまる。「お先にごめんね」と言って、彼はストンと眠ってしまった。


 土曜の朝。リビングのローテーブルに並んで座り、簡単な朝ごはんを済ませたあと、時仁さんが手元の手帳を静かに開いた。


「公証人、そろそろ予約を入れておこうか」

「そうですね。平日なら午前が取りやすいです」


 声が、いつもより柔らかくなるのを自覚する。


「その前に、ペンを買いに行こうと思ってるんだ」

「……署名用の?」

「うん。同じものをね、使いたくて」


 その一言に、思わず笑みが浮かぶ。


「いいですね。ちょっと、楽しみかも」




 *


 午後、丸の内の文具店にやってきた。

 高い天井と白い間接照明。棚には、万年筆、ローラーボール、ボールペン――が控えめに輝いていた。インクの瓶は宝石のように整列している。

 新しい紙と、インクと、わずかに金属の匂い。


「たくさんありますね」

「ここまで多いと、迷うね」


 試筆台の前に立つと、時仁さんはペンを迷いなく選んでキャップを抜く。滑らかにペン先を走らせ、インクの濃淡を確かめる。


 少しうつむいた横顔。穏やかな顔に似合わず、指の節々は固く、手の甲にはくっきりと筋が浮いている。登る人の手だった。その指先で、黒軸のボールペンをくるりと回す。


「細字でも、しっかりインクが出るね。仕事用だとこういうのが理想だ」

「書いてる姿が完全にさまになってますね」

「褒め言葉だよね?」


 もちろん、と軽く笑いながら、思歩も別のペンを手に取る。少し重いが、重心のバランスがいい。ためしに書く。筆圧に合わせて、インクの濃淡が微かに変わった。


「これ、すごくいいですね」

「どれ?」


 隣に立った彼が、同じペンを手に取った。思歩の文字のすぐ横に、彼の筆跡が並ぶ。筆の運びも、筆圧の掛け方もまるで違う二種類の字を、二人でしばし眺める。


 微笑だけが交差した。あれほどいろんなことを〈言葉〉で決めてきたのに、こういうふとした瞬間には、一言もいらなくなる。

 ただ、結果のみを彼が告げる。


「これにしよう」


 レジの前に並ぶと、店員が尋ねてきた。


「名入れもできますが、いかがなさいますか?」


 時仁さんと目を合わせる。ほんの短い沈黙。思歩は、彼に聞く。


「名字も入れますか?」


 彼は逡巡したが、すぐに首を振った。


「下の名前だけにしよう。それでいいかな」

「ええ」


 刻印台にペンを渡すと、静かに金属音が響いた。奥の作業スペースで、刻印機のハンマーが小さく鳴る。

 その音を聞きながら、ショーケース越しにインク瓶を眺めた。どれも美しい色合いだ。ブルーブラック、バーガンディ、深い森のようなグリーン。


「……時仁さん。これまで、特別言わなかったことがあるんです。名字について」


「名字か」


 そう言って、時仁さんは少し姿勢を正す。

 こういうときの彼は、会話の先を予測していることが多い。質問から想定できる展開や話題を脳内でさらっているのだ。

 そして、先手を打たれる。


「おれはね、鷹津でも、野江田でも、どちらでもいい。()()()()()()()()()()()って話になってしまうけど」


 その答えを、少々意外に思う。家柄があるから、男性が改姓することを渋りそうだと思っていたのだが。


「ご両親は、姓を変えてもいいとおっしゃいますか?」


「ああ。両親()気にしないだろう。次男は婿養子にできるからね。先のお見合いも、成立していたらそうなっただろうし……」


 彼は棚からインクを一つ取り上げて、軽く傾ける。視線はインクに釘付けで、こちらを見ない。


「ただ、婿入りとはわけが違う。祖母は難色を示すかもしれないな。それなら鷹津のままでいなさい、といわれてしまったら、反論は難しい……」


 そこで彼は言葉を区切り、こちらを見た。


「でも、君が望むなら、おれは説得してみせるよ。そういうのは得意だし――君と同じ名前になるのは、おれにとっても嬉しいことだから」


 そこまで聞いて、思歩はつい頬を緩めてしまう。

 彼は頭の回転が速い。だが、少々速すぎるのだろう。仮説を並行して考えたうえで、すべてに整合性を見いだせてしまう。それ故に、もっともらしさという()()()()に勢いよく突っ込んでしまう節がある。


「時仁さん。私は、『改姓したくない』なんて一言もいってませんよ」


 案の定、彼は虚を突かれたように、だがそれを極力悟らせまいとするように、目を瞬かせた。


「あれ。そうだっけ?」

「そうですよ。あなたは少し、深読みをしすぎですね」

「じゃあ、……君が、〈鷹津〉になってくれるの?」

「ええ。だって、響きがかっこいいじゃないですか。――鷹津さん」


 彼が一瞬、きょとんと思歩を見る。そして、心底おかしそうに笑った。難しく考えすぎちゃったな、とでも言いたげな、照れ隠しと安堵が入り交じった表情だった。


「……近いうち、鷹津(うち)にも挨拶にいこう。話は通しておく」


「はい」




 会計を終えて、紙袋を受け取る。店を出ると、午後の陽射しがガラスに反射して、街の色が淡く霞んでいた。

 並んで歩いていると、時仁さんがふと思い出したように口を開いた。


「来年の春、レセプションがあるんだ。外務省と経団連の合同で。外交官や企業の代表も来る。毎年、春の恒例行事なんだけど」


「会合ですか?」


「いや、社交の場だよ。顔ぶれは濃いけど、もう隠しておく理由もない」


 彼は歩みを止めて、思歩をまっすぐ見る。


「――君に、同席してほしい」


 彼の口調には、迷いがなかった。


「同行者として?」

「パートナーとして」


 彼の目は真剣だ。


「おれのいるところまで来てほしい。思歩、君を連れていきたいんだ」


 その言い方があまりにまっすぐで、思歩は思わず笑みを浮かべた。


「ドレスコードは?」


「ビジネスフォーマル。夜のね。女性はイブニングか、パンツドレスか……」


 そこで時仁さんは言葉を切る。


「君の仕事柄だとジャケットスタイルがいいだろう。どうかな?」


「わかりました。同席します」


 返事を聞いた時仁さんが、少しだけ笑った。


「ありがとう」

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