6.偶然ではない再会
待ち合わせ場所は、駅から少し外れたダイニングバーだった。
思歩は「カフェじゃ真面目な話はしづらいですから」と言ったが、おれとしては〈契約結婚〉なんて酒がないと正気で聞ける自信がなかったので、むしろありがたかった。
ただ、服には少し迷った。
ドレスコードこそないが、場に即したマナーはどこにでもあるものだ。あまり行くことのない店だが、どういう服が浮くかは感覚でわかる。
大学生みたいなデニムにパーカーでは失礼だし、スーツに革靴ではフォーマルすぎる。
結局、無難にいくことにした。テーパードの効いたチノに、カットソー、その上にカーディガンを羽織る。足元は暗色のスニーカー。引き出しの奥に眠っていた手巻きの腕時計をはめる。四角い文字盤に、飾り気のないモノフェイス。普段は使わないが、ラフすぎる印象になるのも避けたかったし、ああいう場なら悪目立ちしないだろう。
生地感さえ外さなければ、どんな場にも馴染める。
*
ドアを押すと、ほんのりと木の香りがした。氷の当たるグラスの音と、流れるジャズ。外の喧騒が、扉一枚で遠ざかっていく。客席はまばらだった。
カウンターの奥のほうで、思歩が手を振った。
白シャツにジャケット。仕事帰りだろうか。吊るしのスーツの方が彼女と並んだときにより馴染んだかもしれないな、と一瞬だけ思う。
思歩はおれを目に留めると、にやりと笑って隣の席を促した。
「おひさしぶりですね。どうぞ」
「うん。元気そうだね」
席に着くと、ライムの添えられた銅のマグが滑り出てきた。マスターが「モスコミュール。お隣の方からです」と言った。見れば思歩も同じものを飲んでいる。
「それは私から。好きなの頼んでいいですよ」
「まるで奢ってくれるみたいな言い方だね?」
「そのつもりですよ? 誘ったのは私ですからね」
おれは苦笑した。ただそれで、思歩がおれと駆け引きをしに来たわけではないのだということははっきりした。
「こういうの、経費で落ちるといいんですけどね。〝人生の重要交渉における飲食費〟って名目で通るかな?」
「いっそ特別損失にしたら?」
「粉飾めいてきますねぇ」
思歩は笑った。
「それで、経緯なんですけど」
アヒージョをつまみつつ、思歩はさらっと話に入る。
「時仁さんが婚活してるって話をうちの母がキャッチしまして。『思歩も独身だし、どう?』って言ってきたんですよね。……昭和のマッチングアプリですよ、あれは」
おれは軽く息をついた。
「お互い厄介なレガシーシステムを抱えてるな」
「それならまあ、私からご提案してみようと思いまして」
思い切りが良すぎる。
「軽く言うけど、一生ものの話だよ」
「だからですよ。こっちから動かないと、もっと変な話が来るでしょ」
思歩はこともなげに言って、思歩はタブレットを取り出した。
「プレナップってご存知ですか? プレナプシャル・アグリーメントの略なんですけど」
Prenuptial agreement。結婚前の契約。直球だな。
「馴染みはないな。……ああ、ニュースで聞いたことはあるかも。セレブが離婚裁判するとき、よく契約の内容で揉めてるよね。それかな?」
思歩が苦笑する。
「まあ、そうですね。その契約書です」
そう言って、思歩は箸を置いて、改まった調子で続けた。
「婚前契約書っていうのは、婚姻前に当事者どうしで取り決めておく契約です。生活費の拠出とか、離婚時の財産分与とか、あらかじめ書面で整理するんですよ」
「あんまり日本では聞かないな」
同性愛者がパートナーシップ契約を結ぶことがあるのは知っている。そもそも婚姻届を出せないからそうなるのだろうし、それにしたって離婚時の財産分与まで取り決めるような契約はあまり多くない気がする。
「日本だと『信頼があれば契約はいらない』って思う人が多そうですからね。でも、信頼してるからこそ、揉めたくないと思いません?」
おれは無言で頷いた。
「だから〈契約相手〉を探してるのか? 恋人じゃなくて」
「そうです。正確には、結婚を前提に付き合えて、恋人になるよりも前から契約の話をしたい。そういう特殊な条件を呑める相手を」
思歩が利害を前提に話しているのは明らかだった。
転職のオファー面談みたいだ。婚活をしていたときには何度もそう思ってモヤモヤしたのに、思歩の提案はすっと心に入ってきた。
なぜだろう、と考えて腑に落ちる。
彼女は、おれに話をしているのだ。
資産や家柄といった条件を欲しがっているのではない。それを、おれの〈持ち物〉として見ている。結婚すれば合算対象として扱われることもある〈持ち物〉の扱いを事前に取り決めたい、と冷静に確認しているだけだ。
相手にしているのは、鷹津家でも財産でもない。
おれ自身に向けて、まっすぐ話している。
銅のマグを持ち上げながら、思歩が言う。
「どうしてあなたを選んだか、聞きたいですか?」
「生々しいお金の話に嫌悪感なさそうだから?」
冗談めかしたつもりだったが、妙に心許なくなってナッツをつまむ。
「違うといえばウソになりますね。でも、もっと重要な理由があります。……あなた、嘘つけないでしょ。必要なときでも」
おれは思わず首を傾げた。その評価にピンとこなかったからだ。
「いや、そんなことはないけど……」
「自分が傷ついてでも倫理を守ろうとする。……言い換えましょうか。『相手のために』って勝手に無理するタイプですよね」
思わず口を閉じる。漠然と自覚していた癖のようなものを、はっきりと指摘されたような感覚だった。
「……ずいぶん刺してくるな」
「要するに、そういう人のほうが〈契約〉に向いてるんです」
思歩はにっこり笑って、モスコミュールを飲み干した。
思歩が席を外した。その背中を見送って視線を戻すと、向こう側にいるマスターと目が合った。彼はこちらの出方を待っているように、ゆっくりとグラスを拭いている。
おれは追加でカクテルを頼み、クレジットカードをマスターに渡した。
「会計、ここからお願いできますか」
おそらく一連の流れが耳に入っていたのだろう、マスターはほんの少し苦笑しつつ、心得顔でカードを受け取った。
「かしこまりました」
思歩が戻ってきたのは、ちょうどおれの前にカクテルが置かれるタイミングだった。それを見て、小さく声をあげる。
「いいですね。私にも同じものをください」
その口調に、とくに詮索する気配はない。
おれはグラスを口元に運びながら、少しだけ笑った。
「それじゃあ、この婚前契約書について教えてくれ」