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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第6章 確認・その他

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59.野江田家への挨拶 ②

「まず確認したい。契約の目的は、『婚姻(こんいん)生活(せいかつ)における意思(いし)決定(けってい)透明(とうめい)(せい)(たか)め、家計(かけい)財産(ざいさん)責任(せきにん)分担(ぶんたん)明確(めいかく)にし、紛争(ふんそう)未然(みぜん)防止(ぼうし)迅速(じんそく)解決(かいけつ)()すること』。――この目的の意味を、君の言葉で教えてくれ」


「交渉可能性を残すことです」


「ほう」


 お義父さんの目が細まる。一度では言い切らない。説明の余地を残す言葉を選んだ。――質問を引き出すために。


「つまり?」


 想定通り。


「どちらかが沈黙して維持される関係はいずれ〈破綻〉します。配偶者の問題は、自分の問題でもあります。病めるときも、健やかなるときも。問題が生じた際、速やかに話し合いができるような関係を維持します。ですので、〈交渉可能性〉と」


 お義父さんは頷かない。ただ、指先で肘掛けを二度叩いた。

 ――次。


「〈破綻〉の条件は?」


 一瞬、空気が止まった。お義母さんの表情が変わる。


「ちょっと。なんてこというの、お父さん!」と、お義母さんがぎょっとしたような顔で嗜める。

 衝馬もちょっと呆れ顔で、「何言ってんだ、こいつ」という顔を父親に向けている。


 まあ、ふつうはそうなるよな。

 だが、当のお義父さんは涼しい顔で、こちらに向かって言った。


「無礼を許してほしい。だが、家庭事件を長く扱ってきた身としては、こういう見方になる。ましてや、娘は〈婚前契約書〉まで作ったのだからね。……君も契約書には、目を通したんだろう」


「ええ、もちろん」


「では、唐突な話というわけでもあるまい?」


「おっしゃる通りです。構いません」


「では、聞かせてくれ。――〈破綻〉の条件はなんだ?」


「三つあります。

 一つ、相互の信頼が失われた状態が一定期間継続すること。

 二つ、冷却期間を置いても改善見込みがないこと。

 三つ、どちらかが協議再開を拒絶すること。

 これらが揃うと関係修復が不可能ですので、破綻とみなしてよいかと」


「信頼というのは主観だ。数的に量れはしないが」


「はい。感情は法的に量れませんが、それでも〈主観〉をすり合わせるしかありません。そのためにも、結婚後にも話し合いの場を設けたいと思っています」


 思歩がわずかに息を呑む。――そうだな、これはちゃんと伝えていなかった。それでも、彼女が提案してくれたような話し合いを、これからもずっと続けたいと思う。


 結婚してからのほうが、目を逸らしたくなる議題を正面から扱わねばならなくなるのだから。生活費は。子どもは。教育方針は。親戚付き合いは。親との同居は。介護は。遺産配分は。

 だが、おれたちはそのほとんどについて、すでに話し合っている。土台はもうできている。だから、きっと大丈夫だ。


 お義父さんの口角がうっすらと上がる。娘の将来を案じる父親の顔は、もはや弁護士のものだった。


「よし。現実の話に移ろうか。……家庭事件の多くは、生活実態の〈非対称〉からなる。家事や育児の分担量や稼ぎの違いから、心身の負担が偏る。片方は自覚できず、片方は不満をため込む。この見えない偏りを、君はどう扱うつもりだ?」


「棚卸しをします。負担を月次で話し合って、再配分するための場を設けます。双方のいずれも負担できない場合は、外注を使います」


「まるで組織運用だな」


「ええ。家庭は組織の〈運用〉です。感情を重視しなければならないぶん、運用の難度は上がりますが」


 お義父さんが眼鏡を外した。思歩はそれを見て、緊張を一段ゆるめたようだった。家族にしかわからない、彼のくせのようなものなのだろうか。

 ――次。


「もし娘が長期案件にかかりきりで、家事や育児に時間を割けない場合は?」


「娘さんお一人にやらせるつもりはありませんが……」

 いちおう先手を打っておく。

「ええ、僕が対応します。手が回らないぶんは外注に振ります」


「家事は均等に分けるのかね?」


「そうしたいところですが、可視化の難しい仕事ですから、均等に分担するのは現実的ではないでしょう。こだわりがあれば片方に一任して、あとの家事をどのように処理していくかを詰めるほうがよいかと。まだ決めていませんが……正式な同棲をしていないので」


「実運用がまだということだな」


「ええ。来年には、思歩さんをうちにご招待できればと考えております」


 お義父さんは一つ肯いてから、先を続ける。


「最後に聞きたい。君にとって、〈愛〉とは何だ」


 少し面食らった。ロマンティックな議題だ。

 だが、すぐに思いなおす。理屈っぽいからこそ、〈愛〉を完全に定義できる。――おれがそうだから。


「継続です。〈維持〉を選択する回数の集積」


「冷たい響きだな」


「ええ。でも、こういう考え方はお好きでしょう?」


 あ、ちょっと攻めすぎたかな。でも本当に、このお義父さんはこういう言い回しが好きそうだと思う。そうでなければ、おれの目が節穴か。

 幸い、おれの観察眼はまだ使い物になるようだった。


「言うね。だが、そうだな。行動に温度が伴っていれば構わん」


 場の空気がやわらぐ。

 そこでお義母さんがくすりと笑った。


「難しい話はお父さんに任せるわ。でも、あなたにならこの子を安心して任せられるもの。娘のこと、どうかよろしくお願いしますね」


「もちろんです。……その、お義母さんとお呼びしても?」


「まあまあ! もちろんよ!」


 思歩は無言でお義母さんのはしゃぎようを嗜めている。かわいい。

 衝馬がゆっくりとコーヒーカップをテーブルに置く。


「母さん、コーヒーどこ? こいつらもう飲み終わってるぞ」


「あら、いけない」お義母さんがすばやく立ち上がった。

「すぐ持ってくるわ!」


 それを見送りながら、お義父さんが短くまとめる。


「結婚は、継続を試される契約だ」


「承知しています。更新し続けます」


「よろしい。うちは対話の家だ。むろん言葉ですべては解決できないが、言葉を軽んじない限り、我々はうまくいくだろう」


「ありがとうございます」


 お義父さんが手を差し出す。握手を交わす。

 お義母さんは目尻を指で押さえ、「お赤飯、炊いとけばよかった」と漏らす。

 衝馬が笑う。「まだ早いって」





 門の外に出ると、空気が少し冷たかった。

 並んで歩く。駅までの道はまっすぐだ。思歩が小さく息を吐く。


「……驚きました。まさか、その場で『婚前契約書を見せろ』だなんて」


「うん。でも、うれしかった。おれの話を聞いてくれて。君もそうだったけど……」


 舗道の街灯が規則正しく並んでいる。二人の影が伸びたり重なったりするのを見つめながら、おれはぽつりと漏らした。


「誰かに正面から問われることは……おれの内心をまっすぐ聞いてもらうことは、もうなかったから」


 その言葉に、思歩はすぐには返事をしなかった。

 靴音が二つ、同じテンポで続く。風が木の枝を鳴らし、それが沈黙をやさしく包む。

 やがて、彼女は歩調を落として、こちらを見上げた。


「私はいつでも聞きますよ」


 その声に、確かな温度がある。

 頭上に並ぶ街灯の明かりが、二人の影をひとつに溶かしていった。

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