58.野江田家への挨拶 ①
約束の十五分前、思歩の実家の最寄駅に着く。改札を抜けると、風が少し冷たい。いよいよ冬めいてきた。
手には小さな紙袋。定番すぎるかなとは思いつつ、老舗の最中・羊羹の詰め合わせを選んだ。もう一つは洋菓子。個包装のマドレーヌだ。
思歩は、改札を出てすぐに見つかった。
きれいめのパンツスタイル。白いブラウスの襟元、小さなピアス。仕事着でもなく、カジュアルすぎない。よそ行きの姿だ。
彼女の姿を見た瞬間、心拍の質が変わった。大きな交渉前の責任感による緊張から、熱に浮かされたような、それでいて少し浮き足立つような感覚。
「お待たせ」
「いえ。ちょうど今来たところです」
定番の〈嘘〉を言って、彼女が小さく笑った。
「……緊張してます?」
「まあね」
「私もです。合格発表の日みたい」
言いながら、思歩はおれの手に視線を落とした。
「その袋、手土産ですか?」
「うん。無難なやつだけど……」
紙袋の口を開けて、中身を見せる。
「二つも?」
「気にしすぎかもしれないけどね」
手土産を二つ持っていくと、〈重ねる〉という意味になるらしい。
こういう縁起の良さを気にするかどうかは相手次第だ。結婚にはとかく留意しておくべき縁起物が多い。多すぎるが、なるべく押さえておいたほうがいいだろう。
今日に限っては、できるだけ間違えたくない。
「甘いものがお好きらしいと聞いたからね」
「お父さん、きっと喜びます」
軽く笑って、おれは首元のネクタイを直す。
緊張で、頭が妙に冴えていた。
不安ではなく、高揚感。心拍の上昇を都合よく〝わくわく〟と言い換えて得た体感。
少し笑えた。こんなテクニックを意図的に使うのは、初めて折衝を任されたとき以来だ。
「タクシー拾おうか」
二人並んで歩き出す。肩と肩がかすかに触れる距離。このまま時間が延びていけばいいのにな、と思った。
*
玄関扉が内側に引かれて、野江田のお母さん――便宜上、ここではお義母さんと呼ぶ――が顔をのぞかせる。
「まあまあまあ、時仁くん、久しぶりねえ!」
「ご無沙汰しています」
「お母さん、落ち着いて」と、後ろから思歩が小声で制する。
靴をそろえて上がると、廊下の突き当たりで衝馬が手を振っていた。ややニヤついているので軽く睨んでおき、目だけで「黙ってろ」と釘を刺す。
リビングに通されたところで、おれは手土産をお義母さんに差し出した。
「本日はお招きいただきありがとうございます。粗品ではありますが、ご挨拶代わりに」
「あらあら、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
初手で礼を欠くわけにはいかない。だがお言葉に甘えて、ここで少し肩の力を抜いておこう。
がさり、と新聞を畳む音がして、そちらに目をやる。野江田のお父さん――便宜上、ここではお義父さんと呼ぶ――が新聞をローテーブルの上に置き、眼鏡をかけ直していた。
「いらっしゃい。よく来てくれた。衝馬が学生の頃は世話になったね」
「とんでもない。こちらこそ、彼には助けられてばかりでした。お会いできてうれしいです」
「ありがとう」
お義父さんは淡々と話す。表情がうまく読めない。性格は思歩に似ていそうだが、彼女のほうがもっと表情は豊かだ。
ソファに思歩と並んで腰を下ろす。クッションがわずかに沈み、革の擦れる音がした。お義母さんがキッチンからコーヒーと、おれが持ってきた手土産をお茶請けに持ってきてくれる。
「これ、時仁くんからいただいたのよ」
「お口に合いましたら嬉しいです」
「上品でおいしそうよねえ」
お義母さんは嬉しそうに言いながら、テーブルに茶器を並べていく。
衝馬はダイニングテーブルの椅子に座って、遠目でおれたちを見ている。何か言いたげに口元を緩めたり引き締めたりしていた。目が合うとにやりとしたので視線で牽制する――「おとなしくしてろ」。
衝馬はやはりまだ面白そうに肩をすくめて、コーヒーをすすった。
お義母さんがこちらを見た。
「時仁くん、うちの子のどこがよかったの?」
すぐさま思歩が「お母さん」と小声で止める。
「いいじゃないの、聞かせてよ」
おれはカップを置いた。少し間を置いて、視線を落とす。
「……理屈の人間なんです、僕は。自分で作った枠に、長く収まってきて」
そう言いながら、視線を一瞬だけ思歩に向ける。
「でも、思歩さんはその理屈の中で僕を見てくれました。正しさを越えて、受け止めてくれたんです。それが、嬉しくて」
「まあ……。うちの子をそんなふうに言ってもらえるなんて。ねえ、あなた?」
お義母さんはソファの向かいに座るお義父さんを見た。彼は静かに頷く。
それから少し間を置いて、お義母さんが言った。
「お父さんからは、何か聞きたいことないの?」
お義父さんは穏やかに口を開いた。
「婚前契約書を見せてくれるか」
「え?」と言ったのは思歩だ。一瞬だけ目を瞬かせる。
おれも驚いたが、表情には出さない。お義父さんは弁護士だ。おれたちが婚前契約書を作っていると知っていれば、見たがるだろうとは思っていた。
おれは「承知しました」と言って、プリントアウトしてクリアファイルに入れておいた契約書を二部取り出した。
そして、一部をお義父さんに差し出す。
「よければ、こちらをどうぞ」
「助かる」
お義父さんは、紙の上へと静かに指を走らせた。




