57.義理の兄弟
木曜日の朝、ダイニングテーブルを挟んだ向こう側。スマホを確認していた思歩が、視線を落としたまま口を開いた。
「予定通り、金曜にはマンションの修繕が完了するそうです」
「そうか、よかった。じゃあ家まで送るよ」
思歩は小さくうなずいて、スマホを伏せた。
「土曜日に戻ります。……もしよければ、電車で一緒に行きませんか?」
おれは箸を置いて、首を傾げる。思歩は笑って付け加える。
「新しくパン屋ができまして。一駅手前なんです。せっかくだし、寄っていこうかなと」
「好きだねえ……」
そう言いながら、おれは目の前の朝食に視線を落とす。白米やおかず、味噌汁が並んでいる。
「君、もしかして朝はパン派だったりする?」
「そうですね、パンが多いです」
それだと、この朝食はおれに合わせてくれたのだ。その心遣いが嬉しい。同時に、悪いことをしたな、とも思った。
実のところ、おれはパンでもご飯でも、どちらでもよかった。朝に何を食べようかと考えたことが、そもそもなかった。
「おれはパンもご飯も好きだよ。……じゃあ、土曜日は朝から出ようか? そのパン屋で朝ごはんを買おう」
*
土曜日。朝のうちに家を出る。各停で一駅。降りると、並木を抜けた先に小さなベーカリーがあった。
店内は酵母の甘い匂いで満ちている。彼女はトングを持って、迷いなく二つ選んだ。クリームの入った小さな丸パンと、ハード系の惣菜パン。
公園のベンチに腰掛け、しばらく他愛のない話をしながら食べる。食べ終わってから、思歩が小さく息を吐いて口を開いた。
「両親に連絡しました。来週の日曜日がいいと」
「わかった。伺うよ」
それきり、会話は続かなかった。
パンの袋をまとめて、立ち上がる。まだ昼前だ。せっかくだからと、雑貨店をいくつか回った。
カップの棚で思歩が立ち止まる。
「この形、持ちやすそうですね」
「ああ、君の家のマグ、少し重いもんな」
「あなたの家にはそもそもマグがないじゃないですか」
「いらないでしょ」
「私は使いますよ?」
ちょっと責めるように言われて、笑いが込み上げてくる。
「それは悪かった。君がうちにきたときに揃えるよ。一緒に選ぼう」
そんな話をしながら、日が傾くまで街を歩いた。
夕方、エントランスの前で、しばらく立ち止まる。二人とも無言だった。
「じゃあ、また」
「はい。……また」
彼女は振り返って、小さく手を振った。閉まるガラスに自分の姿が薄く映る。
名残惜しく留まろうとする体を引き剥がすように歩き出す――
瞬間、スマートウォッチが震えた。
画面には「衝馬」の名前がある。
思わずマンションのほうを見てしまって、すぐ視線を切る。スマホを取り出し、応答ボタンを押して耳に当てる。
――衝馬の筆不精は筋金入りだ。向こうから連絡をかけてくることはほとんどない。もし、便りがあるなら、それは……。
「……はい」
『おひさ』
その声が衝馬本人のもので、どっと脱力する。八つ当たりじみた苛立ちが湧いた勢いで、言葉遣いが少し荒くなる。
――この親友と一緒に過ごした頃のものに、自然と戻ってしまう。
「お前から連絡してくるなんてあるんだな。……死んだかと思ったよ」
『んなわけないだろ』
衝馬がカラカラと笑う。
『おまえ、来週うち来るんだよな。どうせ明日は空いてんだろ。空けとけ。飲もうぜ』
「わかった、わかったよ」
そう返して、合流場所を決めた。おれにとっては気心の知れたバーだ。
彼のぶっきらぼうな誘い方は、昔から変わらない。だが、いまはそれが妙にうれしかった。
*
日曜の夜、駅近くの店。
小さなバーに入ると、カウンターでグラスを煽る男の姿があった。
「ちゃんと来たな」
「呼び出したのはお前だろう」
さっさと隣に腰を下ろす。
「お前は変わらんな、トキ。相変わらず隙がない」
「そっちはずいぶん日に焼けたな」
「知識の代償だ」
互いに笑いながら、グラスを合わせる。
沈黙が流れても、まったく気まずくならない。何年離れていようと、こうして座れば、あの頃の距離に戻れる。それが不思議だった。
衝馬が唐突に口を開く。
「仕事はどうだ」
「相変わらずだよ。お前ほど自由に動けはしないね」
「自由ってのは虫と泥ん中で寝ることを言うんだ。お前に務まるかよ」
「わかってるよ。でも、お前には向いてるんだろ。いい顔してる」
「そっちもな」
互いにグラスを傾ける。
……おれたちは、多分、性格の相性が悪い。
譲れないものはそっくりだった。約束を守るとか、人を見捨てないとか。だが、それを守る方法がまるで違った。おれは根回しをしたし、衝馬は泥をかぶった。お互いが、お互いのやることを無意味だと思っていた。
だから、何度も衝突した。他人ならとっくに関係が破綻していたであろう口論を、何度も。
それでも、なぜか終わらなかった。どちらかが謝るわけでもなく、翌日には何事もなかったように並んで歩いた。
それが〈幼馴染〉というやつなのかもしれない。理屈よりも先に、身体に染みついた関係。
喧嘩をしなくなったのは、大学で専攻が分かれた頃からだ。
ようやく悟ったのだと思う。
お互いの生き方を本気で尊重しなければならない、と。
こいつは、何も間違っていない。
もちろん、自分も。
長い沈黙のあとで、おれはふと口を開いた。
「……もう、決めたんだ」
何を、とは聞かなかった。衝馬はただ眉を動かした。次の瞬間、口元にゆるい笑みを浮かべる。
「あいつは、幸せ者だよ」
それだけ言うと、衝馬はグラスの氷を回した。
しばらく何も言わず、二人でグラスを空ける。
沈黙は多かったが、その間に流れる空気は穏やかだった。
「……親父は理屈っぽいぞ」
「それはむしろ、望むところだ」
衝馬が低く笑う。
「じゃあ、祝杯の前倒しだな」
衝馬がウイスキーを追加で頼む。注がれる琥珀色の液体を見ながら、おれは小さく笑った。
「お前とこうして飲むの、何年ぶりだろうな」
「八年くらいか。再会のきっかけが妹ってのも、悪くないな」
「お前が帰ってきたのはそのためじゃないだろ?」
「まあな。ついでだ」
衝馬は笑って、グラスを差し出すように掲げる。おれもグラスを持ち上げ、衝馬のそれを軽く打った。




