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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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56.今こそ、話そう。

 退勤後、電車の中で、おれは久しぶりに婚前契約書(プレナップ)を眺めていた。

 まだ触れていない項目がある。離婚時の清算、紛争解決の手順。スワイプする指が、思いのほか慎重になる。

 とはいえ、当たり前のことが書いてあるだけだ。慰謝料の配分や金額といった数字を詰める必要はあるが、それ以外は現行のまま出してしまっても問題ないだろう。


 ……その前に、やるべきことがある。




 帰宅して玄関扉を開ける。明かりは点いていて、おいしそうな香りが漂ってくる。奥から思歩が顔を出して、それだけで嬉しさが静かに込み上げてきた。


「ただいま」

「おかえりなさい」

「ドレッサーは届いてた?」


 思歩は微笑んで寝室のドアを押し開け、明かりのスイッチを入れる。

 壁際に、新しいドレッサーが据えられていた。天板の木目が、蛍光灯の白を受けて、薄く艶めいて見える。


 天板には、彼女の化粧水と乳液、スタンドのブラシ、薄い色味のパレットが整列していた。殺風景だった寝室の中で、そこだけが温度を持っている。


「ああ、いいね」


 思歩は小さく頷き、ドレッサーの前に腰を下ろした。手のひらで天板をなぞる。指先の動きがどこか誇らしげだ。


「気に入っています。ありがとう」

「それはよかった」


 思歩は鏡の中でおれと目を合わせた。唇の端を上げ、なぜか得意げな顔をする。

 その光景に微笑みながら、おれはゆっくりと口を開いた。


「思歩。近いうち、君のご両親にご挨拶をさせてほしい」

「……そうですね」


 思歩は姿勢を正した。振り向いて、おれと直接、視線を合わせた。


「そうしていただけると、嬉しいです」


 そして、ふっと表情をゆるめた。


「日程を合わせましょう。父と母にも話しておきます」


「ありがとう」と言って、おれは口を開いた。


「……。その前に、プレナップも詰めておこう」



 *


 食器は流しで水に浸けた。テーブルには片づけ忘れたコップが二つ。空調の低い風と、遠くで冷蔵庫が鳴る音。

 テレビを切ると、部屋に静けさが落ちた。


 思歩はブランケットにくるまりソファに腰を下ろした。おれも隣に座る。肩がそっと触れ、布越しに体温が伝わる。


 おれはタブレットを手に取った。婚前契約書(プレナップ)の起案版を開き、条項を指で追う。そこに並ぶのは、やはり当たり前のことばかりだ。


 不貞・暴力等により相手方に損害が生じたときは、慰謝料として金銭を支払う、とか。

 離婚に際しては、寄与度を考慮しつつ財産分与を行う、とか。

 子の監護・面会交流・養育費用については、子の利益を最優先として別途協議する、とか。

 紛争が生じたときは協議をして、それで解決しなければ家庭裁判所へ行く、とか……。


「15条から17条はこれでいいと思う。修正したい箇所はないよ」


「わかりました。これで条項はひと通り確認できましたから、もう少し見直したら、公正証書作成の手続きに移りましょう」


 思歩の声は落ち着いていた。


「……協議は記録を残す前提です。感情的になったらいったん切って、間を置いて再開する。まとまらなければ第三者の調停に上げる。――その三点だけ、明記しておきます」


「了解。わかりやすくていい」


 不思議だった。

 離婚の話をしているのに、どうしてこんなに心が穏やかなのか。

 彼女の言葉は不安ではなく信頼の調子だ。備えは疑いではない。ここでようやく腑に落ちる。


「心の距離を離せば、それだけで穏やかに過ごせます。契約も不要です。……でも、あなたとは離れたくない。わからないことがあっても、隣で生きたい。そう、伝えたくて」


 そんな言葉を、彼女の口から聞くとは思わなかった。不意を突かれて、胸の奥がじんと熱くなる。


「……それも契約に書いておいてくれる? いちばん効力がありそうだ」

「ダメです。条文にできないので」


 さらりと断られて、笑いがこぼれる。


 愛してる、と言うにはまだ少し早いかもしれない。だが、彼女と最期まで向き合う意思なら、もうある。


「……金曜日には、工事が終わるそうです」


 彼女のマンションの工事が終わる。それはつまり、この仮住まいに区切りがつくことを意味する。


「それはよかった。けど、さみしくなるね」

「来年には、契約満了になります。そうしたら、引き払おうと思っていて」


 思歩はひとりごとのように言う。


「そのあとは、ここに来てもいいですか?」


 おれは思歩を見つめて、ゆっくりうなずいた。


「来てほしい。……それまでは、ときどき君の部屋にお邪魔していいかな」

「ええ。お待ちしてます」


 思歩がそっと手を重ねてくる。手のひらが指先まで重なって、やがて、自然に指が絡まった。

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