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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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54.ただいま

 あっという間に土曜日だ。

 日本行の便は早朝に押さえて、速やかに韓国を発つ。機内では報告書の最終確認をして、気がつけば着陸のアナウンスが流れていた。


 空港ロビーでスマホを確認する。思歩(しほ)に宛てた『これから帰ります。到着予定は10:00』というメッセージに、了解のスタンプが貼られていた。


 荷物を持ち直して、出口に向かう。

 人の流れが途切れた先――思歩の姿が見えた。おれと目が合うと、マスクを外して、笑いながら小さく手を振った。


 瞬間、足が勝手に動いた。

 両腕が自然と前に出て、気づけば彼女の身体を抱きしめていた。


 ただ、確かめたかった。この温かさが本当に現実のものだということを。――理由は後からついてきた。

 彼女の手が、背中を撫でるように動く。


「おかえりなさい」

「……ただいま」


 ようやく追いついてきた理性が、呆れたようにつぶやく。たった四日で大げさだ、と。だが、どうしようもない。向こうは過ごしやすかったが、ずっと寒かった。四日間、どんな暖房でも芯まで温まらないような寒さに晒されていた。

 それが今、溶けるように引いていく。


 思歩の肩に頬を預ける。しばらく、どちらも動かなかった。抱きしめているというよりは、支え合っていた。

 ずっとこうしていたかったが、人目がありすぎる。一つ息をついて、しぶしぶ腕をほどく。思歩が軽くおれの肩を叩き、そっと顔を覗き込んできた。


「もう大丈夫ですか?」

「うん。うーん……。たぶん……」

「なんですか、それ」


 彼女がおかしそうに笑う。そっと腕を組まれて、思考が一瞬止まり、息が乱れかける。体温がじわりと上がった。


 帰り道はほとんど言葉がなかった。歩幅が揃えば、会話はいらなかった。

 玄関を開ける。鍵を置く音だけがやけに大きく響いた。


 思歩がコートを脱ぐのを見て、気づけばまた抱き寄せていた。

 言葉はなかったのに、思歩はごく自然におれに身体を預けてくれる。


「お腹、空いてません?」


 その声が、ひどくやわらかい。


「ああ。もう限界だ」

「ですよね」


 思歩はキッチンに立った。あらかじめ仕込んでいたらしいホワイトシチューを、鍋で温め直す。温かい香りが広がって、久しぶりに空腹感と食欲が重なる。「早く食べたい」という衝動がせり上がってきた。

 テーブルにそれが置かれるまで、五分とかからなかった。


「手っ取り早く栄養が摂れそうなものにしてみました」

「ありがとう。ずっとコーヒーとパンだったんだ」

「やっぱり?」

「どうしてわかるの?」

「さすがに内訳はわかりませんが、まともに食べてないのは顔に出てますよ」


 笑ってシチューを口に運ぶ。塩気が控えめで、体に染みる。


「……帰ってきたって感じがする」

「それは何より」


 彼女はそのままグラスを持ち上げ、小さく掲げた。おれもグラスを持ちあげて、彼女のコップを軽く打つ。小さく音が鳴った。

 思歩と一緒に暮らしているという感覚が、腑に落ちてくる。


 食事が済んで、十分ほど風呂につかる。それだけで出張の疲れはほとんど取れていた。


「そのまま眠りますか?」

「まだ起きていたい」


 ソファで思歩と肩を寄せながら、ふと彼女が泊まりにきた最初の夜を思い出す。

 夜遅いから、助け合うべきだからと理由を重ね、ホテルでやり過ごそうとする彼女を引き留めた。

 あのときは「仮住まい」を提供したつもりだった。

 だが、ひとたび一緒に暮らしてしまったら、もう離れがたくなった。


 四日やり取りをしないなんてよくあることだったのに、出張中はやけに長く感じられた。仕事に没頭していなければ、耐えられなかったかもしれない。心臓のあたりには、強烈な喪失感が(おり)のように始終へばりついていた。


 だが、あくまでも仮住まいだ。思歩は、いずれ()()()しまう。

 おれにとっては、〈家に帰る〉という言葉が、ようやく形を帯びてきたところなのに。


「君のマンション、修繕は進んでるかな」

「順調みたいですね。でも、まだ見に行ってなくて」

「ここには、もう慣れた?」


 我ながらずるい聞き方だったが、それでも彼女は穏やかに返した。


「ええ。慣れすぎちゃったくらい。すみません。いろいろ勝手に探して、使っちゃって」

「問題ないよ。……ねえ、思歩」

「はい?」

「この部屋、ドレッサーがないんだ。必要だろう?」

「それは、あると助かりますが……」

「明日、見に行かないか。二人で」


 思歩はゆっくりと目を瞬かせた。

 急かしたくはない。でも、君の時間を置いていってほしい――ただ隣で暮らしてほしいと、そう願わずにはいられない。


「君にとって、今は仮住まいかもしれない。でも、そのうち仮じゃなくなるからね」


 彼女ははにかむように笑って、それから小さく肯いた。

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