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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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53.足止め

 朝、ホテルのベッドの上で目覚める。

 体の節々に、まだ昨日の疲れが残っている。


 朝の遅延確定から出発まで神経を張り詰めっぱなしで、着いてからはフォワーダーとの調整。終わったと思ったら空港の封鎖。本社とのやりとりで深夜までずっと気が抜けなかった。


 ――今日から明日にかけては、一通り情報を拾っておきたい。


 そう考えながら、おれは鞄から薄いシャツとズボンを取り出す。

 急な出張に備えてラフな着替えは一組だけ持ち歩いているが、体裁を整える服の替えはない。それに、秋口の韓国は思ったより冷える。


 シャツとズボンを買わないと。靴下と下着も心もとないし、歯ブラシもない。

 韓国のホテルは使い捨てアメニティの客室常備をやめているところが多い。リクエスト制かフロント販売が主流だが、ビジネスホテルではそもそも置いていないだろう。

 あとは、洗顔フォームと保湿剤。

 変換プラグも欲しい。充電ケーブルの予備も買っておくか。


 ちょうど、向かいにモールがある。

 出勤の人波の流れに乗り、横断歩道を渡って中に入った。

 開店時刻ちょうど。空調がやけに強かった。


 製造小売(SPA)の看板が並ぶエリアで、一番シルエットの整った白シャツを探す。

 一度縫い目をチェックしてから、試着室で袖を通す。

 同じシャツがもう一枚欲しかったが見当たらなかったので、とりあえずスラックスを見繕う。靴下と下着もそろえる。

 おれはレジでシャツを示して、日本語で店員に聞いた。


「あの、すみません。これと同じものありますか?」


「ないけど、これなら。Mでぴったりです」


 店員が流暢な日本語で言いながら、淡い紫色のシャツを持ってきてくれた。


 次は日用品が集まるフロアへ向かう。白い照明が反射して、通路が少し眩しい。


「韓国語、やっとけばよかったな」


 棚札の読み方から躓く。

 せめて読み方くらいは押さえておけばよかった。

 いや、そういう問題じゃないか。


 英語表記を追いながら、眉を寄せる。〈トナーパッド〉と書かれた、背の低い円柱の容器を手に取る。小さい穴(pore)うるおい(moisture)コットン(cotton)……単語は読めるが、文脈がわからない。

 結局、これは手を拭くものなのか、顔を拭くものなのか。どのタイミングで使うんだろう。


 目当てのものを入れてレジに並ぶ。

 レジ横に置いてあった日焼け止めをついでに取る。




 *


 ホテルに戻って身だしなみを整えてから、すぐに空港へ向かった。

 道中、フォワーダーに「再開直後のULD一本、先約を」と根回しをしておく。


 未だ封鎖が続いていることを確認してから、保税区画の前で標識と時計が入るよう写真を数枚撮る。封鎖通知の写しを受け取ってから、親航空運送状(MAWB)のドラフトを再確認した。内容に変更なし。封鎖が解けたらいつでも正式発行に移れる。


 ホテルに戻り、一次報の素案を作って安藤さんに回す。佐伯くんには顧客向け文面の雛形を依頼しておいた。明日、数値を入れたらすぐ出せる形まではもっていってくれるはずだ。



 翌日、スマホが震えた。WhatsAppの臨時グループに新しい通知が灯っている。


『封鎖解除。北ゲートのみ開放』


 急いでフォワーダーの事務所に向かう。現地担当が報告書を片手に迎えてくれた。


「検査完了です。十一時四十二分、搬入再開」


「了解。――とりあえず、三日は縮みそうですね」


「ええ」


 その一言で、緊張がふっとほどけた。体を打つ風が、ほんの少し柔らかく感じる。


 今日は、数字固めだ。

 フォワーダーから積み付けの確定時刻と重量をもらう。社用スマホを確認すると、安藤さんからメッセージが届いていた。


『一次報、出しました。社内報告のドラフトは数字待ちです』


『了解。これから送ります。』


 確定時刻と重量、それから写真と封鎖通知の写しを揃えて安藤さんに送る。これで報告書が仕上がるはずだ。


 カフェでコーヒーを買い、外のベンチに腰を下ろす。

 もう、やるべきことはない。出せるものは出した。




 *


 スマホを開くと、通知の最上段には思歩からのメッセージがあった。


『落ち着いてからでいいです。連絡を待っています。ゆっくりお話ししたくて。』


 少し迷ってから、指を動かす。電話をかける。


「もしもし。思歩?」


『はい。元気そうで、よかった。ほんとうに』


 声を聞くと、どっと力が抜けた。突っ伏しそうになるのを、額を腕で支えて止める。安堵がじわりと涙腺に来た。


 ――片がついてからでよかった。仕事中に声を聞いていたら、あんなに動けたかどうか。心はむしろ折れたかもしれない。


 おれはこんなに弱い人間だったか。

 ……その通りだ。もともと弱い人間だった。それを彼女があぶり出しただけだ。


「どうにか終わったよ。悪くない結果だ」


『それは良かった。韓国は寒そうですね。暖かくしてますか?』


「ああ。ここはそろそろ雪が降る季節に入りそうだ」


『ちゃんと食べてました?』


 おれは苦笑いする。思歩は勘付いているんだろう。おれが一人になるとまともな食事をしないことは、もう見抜かれている。

 普段だとあいまいに言葉を濁すのに、次の言葉はすっと出てきた。


「あんまり食べられなかったな」


『わかりました。帰ってくるのに合わせて作りますから、一緒に食べましょう』


「期待していいのかな? 君とのごはんを三日は食べ損ねてる」


『ええ。味は保証しませんけど』


 笑った拍子にコーヒーをこぼしかけて、あわててカップの蓋を押さえた。


 明日には帰国できる。それだけで十分だった。

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