51.共同生活
時計の針は午後十時半を過ぎた。
思歩はリビングの隅に立ち、手帳を片手におれの説明を聞いていた。
「ここが洗面所で、洗剤は下の棚。タオルはこっち。あ、予備の歯ブラシもあるよ」
「はい」
生活に必要なものの位置を説明しているだけなのに、思歩はまるで現場監査でもしているような真剣さで、頷きながらメモを取っていく。
「ここ最近はまた忙しくてね。帰りは遅くなると思う」
「わかりました」
「それと……予備の鍵と、カードキー。渡しておく」
「お借りします」
「もらっていいよ」
あとで予備の鍵を作らないとな。と頭の中でタスクを追加していると、思歩がちょっとびっくりしたようにその鍵を見ていた。
「どうしたの?」
「いえ。その……鍵をくれるとは思ってなくて」
「自由に出入りできたほうがいいでしょ」
「それはそうなんですけど……。いえ、嬉しいです」
思歩はそう言って、どこか慎重に笑った。
おれの意図を測りかねているようにも見える。
意外だった。合鍵を渡すなんて、たいしたことじゃない。信頼している相手ならなおのこと。ましてや恋人なのだから、むしろ遅かったくらいだと思っていた。
鍵は、生活の内側への出入り権限だから、彼女にはきっと別の重さを感じるのかもしれない。
リビングの照明を落としながら、思歩にベッドルームを示す。
「寝具は全部そこにある。おれはソファで寝るから」
「え? それは……。さすがに悪いです」
「いいよ。おれはどっちにしろ使わないんだ」
思歩が首を傾げる。
「どうしてですか?」
口を閉ざした。理由というか。隠すほどのことでもない。ただ……。
「……起きられないから」
「起きられない?」
「ベッドで眠ると、その……。遅刻するんだよ」
思歩が瞬きをして、おれの顔を見た。
沈黙が落ちる。
彼女の表情には小さな驚きと、かすかな笑いが入り混じっていた。その反応に気づいて、ついこちらも笑ってしまう。やや自嘲の入り混じった笑いだった。
「悪かったね、真面目な理由じゃなくて」
「いえ、いいと思いますよ……」
思歩はそれだけ言って、口元を指で押さえた。
おれは五時ごろに目が覚め、ダイニングでノートPCを開いていた。
薄暗い室内に、キーボードの音だけが響く。画面の光が、冷めきったマグカップの縁を照らしている。
六時半を少し回ったころ、寝室のドアが静かに開いた。髪をまとめた思歩が、リビングに入ってきた。
「おはようございます。早いですね」
「おはよう。君も早起きだね」
思歩は軽く伸びをして、やわらかく微笑んだ。その笑顔がまだ寝ぼけていて、少し新鮮だった。
「朝ごはん、作っちゃいますね。食べられそうですか?」
「うん」
その返事は、自分でも驚くほど素直に出た。
朝に人の気配がある。それだけで、部屋の空気が違って感じられる。
ほどなく、キッチンから味噌汁の香りがした。
木の匙が鍋肌に当たる、こすれるような音が耳に届く。思歩が鍋の蓋を少し持ち上げ、味噌を溶かし込む。
その手際を、ダイニングテーブルに座って眺めていた。
「いい匂いだな」
「もうすぐできますよ」
味噌と出汁の香りに、白米の匂いが重なった。
皿には、卵焼きと、小松菜のおひたし。どちらも色合いがやさしく、朝の光の中で少しだけ艶めいて見えた。
「いただきます」
箸を取り、まず卵焼きをひと口。柔らかく、じんわりとした甘さが広がる。
続けて味噌汁をすすると、出汁の塩気が舌に残る。体がゆっくりと目を覚ましていくようだった。
――朝ごはんを食べたのは、いつぶりだろう。
「おいしい」
そう言いながら視線を上げると、思歩の視線とぶつかった。その瞳が妙に真剣で、ドキリとしてしまう。どうしたの、と問おうとしたが、その前に彼女が口を開いた。
「……兄が、日本に帰ってきてるんです」
「衝馬が?」
箸を動かす手が止まる。驚きよりも先に、ああ、やっと帰ってきたのか、という安堵のような感情が湧いた。
「そういえば、日本に戻る予定があるって言ってたような」
「母に呼び出されて実家に行ったら、いきなり家にいて驚きました」
「いつ戻るかは聞いた?」
「決めてないんですって」
「そうか。衝馬のことだ、どうせ黙って飛ぶだろうな。なるべく早く、こっちから会いに行かないと」
自然と笑いがこみ上げた。
あいつらしい、と心の中でつぶやく。
電話はちょくちょくしていたが、彼女の前で衝馬の名を口にし、話が弾むたび、十代の頃の空気がうっすらと蘇る。
いつも無駄話ばかりしていたのに、今でも何を話していたのか思い出せる気がする。
駅へ向かう道を、思歩と並んで歩く。
朝の風は冷たく、通りの街路樹がさらさらと鳴っていた。
途中のカフェスタンドでコーヒーを買った。テイクアウト用の紙カップを片手に、改札の手前で足を止める。
「じゃあ、ここで」
「はい。……今日は遅くなるんですよね。夜食はいりますか?」
「いや、いい。朝がいいな。一緒に食べてくれる?」
「もちろん」
思歩の返事が軽やかで、それだけで肩の力が抜けた。
乗る電車は違う。だが、紙カップを持ったまま交わす数分の会話が、思いのほか楽しい。
改札に吸い込まれていく人波の横で、もう一度、短く「じゃあ」と言い合った。
彼女が振り返って手を上げる。雑踏の中で、そのしぐさだけがはっきり見えた。
帰宅したのは、日付が変わるころだった。
玄関は暗い。部屋の灯りは落ちている。靴を脱ぎながら、もう寝てるだろうな、と思った。
そのとき、奥の部屋のドアが音もなく開いた。
「おかえりなさい」
思歩が、淡い照明の中から顔を出した。
髪をひとつに束ね、部屋着のまま、穏やかに笑っている。
「……ただいま」
その言葉が、思った以上に胸に響いた。
この家で「ただいま」と言える日が来るなんて、思ってもみなかったことだ。
それだけのことが、どうしようもなくうれしかった。




