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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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50.仮住まいの約束

 スマートウォッチが震えたのは、夜の九時を少し回ったころだった。モニターから視線を切り、ブルーライトメガネ越しに確認すると、思歩(しほ)の名前が表示されている。


 ――珍しいな。もう遅いのに。


 モニターの明かりを背に、おれはスマートウォッチの通話ボタンを押す。スピーカーから思歩の声が聞こえてきた。


『こんばんは。遅くにすみません』


 思歩の声は抑えたトーンだったが、いつもより少し疲れているように感じた。少し心配になる。


「全然。何かあった? もちろん、何もなくてもいいけど。話せて嬉しいよ」


 彼女が少し笑う。だが、やはり元気がない。


『その、トラブルがありまして。うちのフロア全体が漏水なんです。上の階の配管が破裂したらしくて。修繕が終わるまで、二週間くらい立ち入り禁止になっちゃいました』


 思ったよりも大きなトラブルだった。


「それは災難だ。……二週間も?」


『はい。取り急ぎ、共有です』


 平静を装っているのが声の端々からわかる。

 何かに急かされるように、身体が立ち上がる。モニターの電源を切った。メガネを畳んでデスクに置き、作業部屋を出る。

 思歩は話を続ける。


『管理会社からホテルを紹介されたので、とりあえずは大丈夫そうです』


「ホテルに向かうの? 今から?」


 夜九時過ぎに、一人で? とんでもない。

 咄嗟に出てきそうになった言葉をいくつか飲み込む。「危ないよ」「場所はどこ?」「誰かに送ってもらえる?」――どれも、過干渉で支配的だ。

 主体性を疑う発言。心配という名の監視。命令。適切ではない。


 もっと端的に。具体的には、話を建設的に進める言葉が要る。


「……それなら、うちにおいで」


 これもまた命令のように聞こえたが、これ以上は譲れなかった。どう言葉を選んでも、心配の気持ちは隠せそうにない。


『えっ?』


「作業スペースはある。Wi-Fiも使える。駅からも近い。昇り降りは不便だけどね。まあ、それでもよければ」


 返答の間が、少し長かった。


『それは……あの。迷惑じゃないですか?』


「こういうときに助け合わないでどうするの? 君がホテル暮らしをするってほうがよっぽど落ち着かないよ」


 自分でも驚くほど早口になりかけて、意図的に発話の速度を落とす。言葉はまだ理屈の体を保っているが、どこか熱を持っている。


『……では、お言葉に甘えます』


 小さく笑う声がした。

 それだけで、少しほっとする。


「待ってて。駅まで迎えに行くから」


 通話を切って、すぐに出る準備をした。

 これでよかったのか――考えるより先に、手が鍵を取っていた。




 駅前はまだ人の往来が多かった。

 夜の十時を過ぎても、ビルの灯りとタクシーの列で街はずいぶん明るい。


 改札を出ると、スーツ姿の思歩が立っていた。大きめのトートと紙袋を肩にかけ、スマートフォンの画面を見ていたが、こちらに気づくと顔を上げる。


 目が合う。その瞳が意外そうに瞬く。


「そういうラフな格好、初めて見たかも」


 思歩の視線が、おれの胸元から足元へと滑る。おれもつられて自分の恰好を見下ろす。

 薄いカーディガンは手に掛けたまま。ベージュのワッフル地の長袖、黒のスウェットパンツ、白いスリッポン。上も下も、部屋着の一歩手前みたいな生地感ではある。

 

「急いで来たから」


「似合ってます。……ちょっと意外で」


 思歩がそう言って微笑む。彼女の表情はどこか柔らかかった。




 ドアを開けて照明をつけると、白い光が一斉に広がった。冷えた空気が足元に流れ込む。


「ようこそ、うちへ」


 思歩はスーツの上着を脱ぎながら、室内をゆっくり見回した。少し物珍しそうだ。泊まる前提で見ると印象が違うのだろうか。


「やっぱり、綺麗にしてますね」


「使ってないだけだよ」


 おれが荷物を置きながら言うと、思歩が軽く笑う。急な出張もあるからね――と喉まで出かかってやめた。こういうのは口にすると実現するっていうジンクスがある。

 そこまで考えて、先ほどまでチェックしていた資料の内容を思い出す。

 まあ、口に出さなくても変わらないかもしれない……。


「何か飲む? 水か、炭酸水か、コーヒーくらいしかないけど」


 そう言いながら、冷蔵庫を開けた。

 隣でのぞき込んだ思歩が、少しだけ肩をすくめる。


「やっぱり、冷蔵庫はまだ空っぽなんですね」


「空っぽではないよ。ほら……」


「いえ、好都合って意味です。食材を買ってきましたから。明日、朝ごはんをつくってもいいですか?」


 そう言って、彼女は紙袋の中から、スーパーの袋を引っ張り出した。ビニール袋の口を広げると、ふわりと野菜の青い匂いが立つ。

 ――この部屋にはほとんどなかった、食べ物の匂い。


「どうりで重いわけだ。待ってる間に買ったの?」


「そうですよ」


 鮮やかな緑の小松菜、食パン、鶏もも肉、出汁や白米のパック……。思歩は手際よく中身を分けていく。その手つきに、どこか楽しげなものがある。


「もしかして、君は料理が好きなの?」


 思歩はちょっと迷うように首を傾げたが、すぐに小さく笑った。


「食べることも、つくることも、好きです」


 言葉の後半は、少し照れくさそうだった。

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