5.偶然の再会
結婚相手と出会ったきっかけで最も多いのは、仕事関係だ。職場しかり、取引先しかり。うちの会社にも社内カップルが何組かいる。
次に友人や知人からの紹介。学校。そして習い事や社会人サークルと続く。
それじゃあ、職場で結婚相手を探すのが合理的だろうか? いや。とてもそんな気にはなれない。
仕事がある日は、男女問わず誰かを食事に誘ってはいる。
正味、相手は誰でもいい。社食でも、仕事帰りのラーメンでも、隣に誰かいるだけで箸が進む。普段は朝食も食べない。一人で食べると、どうにも落ち着かないのだ。
ただ、女性と二人きりになると、どうしても場違いに感じる。ランチミーティングや新人の懇親会、経営陣の接待みたいに、目的がはっきりしている場のほうが、むしろ気楽だ。
だから、会社の外で人と繋がれる場所に誘われたとき、少しだけ期待したのは確かだ。
古い知人が立ち上げた〈週末ボルダリング会〉。月に二回、初心者も歓迎で集まる気楽な社会人サークルだった。
こういう場所には、思わぬ〝出会い〟が転がっていることがある。
なにも恋愛だけじゃない。友人ができたり、ちょっとした情報が手に入ったり。日常の延長にありながら、職場と自宅の行き来だけではありえないような出来事が起きたりする。
*
ボルダリングジムの一角で、主催者が「今日は見学の方もいます」と声をかけた。
視線をやった先に、若い女性がいた。ストレッチマットの端に腰をかけ、こちらをじっと見ている。
やけに見られるな、と居心地の悪さを感じながらマットに飛び降りたところで、その子が声をかけてきた。
「……あの。鷹津先生、ですか?」
懐かしい呼ばれ方だった。
一瞬、誰かわからなかったが、名乗られる前に思い出した。
「九坂さん?」
「そうです!」
彼女の顔がぱっと輝く。人違いでなかったようで俺はそっと安堵した。
九坂このみ。大学時代に塾講師のバイトをしていたときの教え子だ。
でもおれは半年しかいなかったし、その後も講師業はやらなかったから、〈先生〉と呼ばれるのはなんだか妙な気分だった。
「覚えててくれたんだ……!」
「それはこっちのセリフだよ。よくわかったね」
シャワーを浴びて着替えを終えると、いつもの流れでそのまま駅前の居酒屋へ。九坂さんも当然のように輪に加わっていた。長テーブルに席を詰めていって、気づけばおれの隣に座っている。
「まさかこんなところで会えるとは思ってなかったよ」
「ボルダリングに興味があって。ここのサークルはたまたま見つけたんです!」
「そうなんだ。偶然ってあるもんだね」
彼女は大学三年生だという。杏子酒を頼んでるから、もう二十歳か。
教え子がいつの間にか成人しているとは。子どもの成長ほど時を感じるものはないな。
そのあとは九坂さんに一言断って席を立ち、長テーブルを移動しながら他の参加者とも話した。仕事の愚痴、趣味の話、家族の話。どれも明日には忘れているような軽いやりとりだ。だが、おれはこういう雑談の時間がいちばん好きだった。
再び九坂さんの隣に戻ってきたとき、彼女は笑って「またお話できますね!」と言ってくれた。いい子だ。当時よりずっと大人びて見えるが、笑うと面影が残っている。
「新しくバイトを始めようかと思ってて。……先生は、なんで塾でバイトしてたんですか?」
おれはポテトをつまみながら答えた。
「友だちから頼まれたんだよ。人手が足りないから助けてくれってね」
「えっ。そんな理由で?」
「うん。だから先生って呼ばれるのもくすぐったいな。先生やってたのは半年だけだから」
ふと横を見ると、九坂さんと視線がぶつかった。彼女は小さく笑って、グラスを傾けてみせた。
「じゃあ、わたしも先生のこと〈鷹津さん〉って呼んでいいですか?」
「ん? もちろん」
肯くと、九坂さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
当時から、物静かで、まじめで、素直な子だった。
あの頃から変わらず、そのまま大人になったという感じがするな。
電車での帰り道、LINEの通知がひとつ鳴った。
九坂さんからだった。
「またお話ししたいです!」と、明るく絵文字付きで書かれていた。
素直なメッセージだ。少し迷ってから、スタンプを一つだけ返す。
どこかあたたかい気持ちになった。
その直後、もうひとつ通知が届いた。
今度は、思歩からだった。
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返信ありがとうございます。
ぜひお話しましょう。
来週の土曜日、以下のバーでいかがですか?
https://……
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指定されたバーのGoogleマップが添えられていた。
簡潔で、無駄がない。
読んだ瞬間に頭が冴えて、思わずスマホを持ち直す。
予定を確認してから、簡単なあいさつと共に、日程を了承する旨を打った。
「楽しみにしています」という社交辞令も添える。
送信した後、なんとなく思いついて、スケジュールに『契約結婚・一次面談』と打ち込んでみた。登録する直前、ちょっとためらったが、やっぱりそのまま登録することにした。
スマホの電源を落として車窓の外を眺める。
自分でやったことがなんだかおかしくて、ふっと笑ってしまった。