49.野江田家の帰省
思歩は電車に揺られ、実家に向かっていた。
きっかけは、母から届いたメッセージだった。
『今週は帰ってこれそう? 見せたいものがあるの』
『いいけど。見せたいものって何?』
そう聞いても、のらりくらりとはぐらかされて、結局何も教えてもらえなかった。
電車を降りると、空の色が灰色がかっていた。雨の名残が残る湿気が、アスファルトからじわりと立ちのぼっている。
駅前の道を抜けて、緩やかな坂を上がる。
住宅街は静かだった。実家の前に着くと、窓が開いていて、風がレースのカーテンをわずかに揺らしていた。
鍵を回すと、手に覚えのある重みが返ってくる。
玄関扉を開けながら、誰に言うでもなく声を発する。
「ただいまー」
その言葉に合わせて、廊下の角からにゅっと顔が出てくる。
脳が認識するより先に、身体がたじろいだ。
「おかえり」
日焼けで浅黒い皮膚。短髪、Tシャツ、色の抜けたカーゴパンツ。
数年ぶりに見るはずの姿が、なんの前触れもなく目の前にある。
「えっ……お兄ちゃん? なんでいるの?」
「家だから」
拍子抜けするほど、平坦な返事だった。
この野江田 衝馬という男は、昔から〈説明〉という概念に興味がない。その場でひらめいたことが率直に口をつく。めったに連絡もよこさない。
思歩は、靴を揃えながらため息をついた。
「ケニアにいたんじゃないの?」
「今朝帰ってきた。母さんは買い物だ。父さんはゴルフっつってたか。おまえこそ、なんで実家にいるんだよ」
「お母さんが、見せたいものがあるって」
「見せたいものね」
衝馬は愉快そうに笑って、台所に入っていった。思歩もその背中を追う。
その笑い方で、大体の事情は読めてきた。母はきっと、兄が帰ってくることをサプライズで報告したかったのだろう。そういう性格の人である。
台所に入る。ダイニングテーブルの上には、小さな山ができている。麻袋の上に盛られたマカダミアナッツ。まだわずかに土の匂いが残る実が転がっている。
思歩はビジネストートを椅子に掛けた。
「婚前契約書か?」
思歩は目を上げた。衝馬の笑いは浅いが、バカにしているわけではない。事情を知っているぞという顔だった。
「違うけど。誰から聞いたの?」
「トキ」
一瞬、それが誰を指すのかわからなかった。思歩は軽く身を乗り出す。
「……時仁さん?」
「そう。時仁」
「いまも連絡取ってるの? お兄ちゃんほとんど音信不通なのに?」
「おまえがあいつに爆弾を投げやがったからな」
そこまで言って、衝馬はニヤリと笑った。からかっているような、興味が混じったような顔つきだった。
兄が、今も時仁さんと繋がっている。それが、なんとなく、くすぐったいような、落ち着かないような気持ちにさせる。
二人が昔からの友人であることは知っている。それこそ四~五歳くらいからの付き合いだ。思歩も遊びや勉強に交ぜてもらって、何度も一緒に過ごした記憶がある。
時仁さんは、よくもまあこんな社交性のないあけすけな人間を友人として気にかけてくれてたな、と我が兄のことながら思う。
そこで、ふと思い出す。
彼は、いつだって話をちゃんと聞いてくれていた気がするな、と。子ども扱いはせず、ただほんのちょっとだけ、面倒くさそうに。
今の彼なら絶対にしない表情だ。たぶん、あの頃の自分が、言葉を制限するということを知らなかったからだろう。
それでも、兄のように放っておくわけでもなく、踏み込みすぎるわけでもなく、ただ向き合ってくれた。
「〈契約結婚〉を持ちかけられたって、あいつかなり動揺してたぞ。かわいそうに」
「それは……驚かせたことについては、悪いなと思ってるけど」
「ほんとかよ?」
ほんとだ。確かに無神経だった。だが、彼にも〈想定外〉があるのだと知って――嬉しくなってしまったのも、否定できなかった。
いまになって、ようやくわかる。
なぜ、あのとき自分が〈契約〉という手段を取ったのか。
なぜ、あんなに準備してまで、彼に条項をぶつけたのか。
好きだった。でも、それを真っすぐ伝える勇気がなかった。伝えて関係が壊れるのも怖かった。論理を先に出せば、拒絶されても逃げ場があると思っていた。
でも、違う。逃げたんじゃない。自分なりの想いを伝えるために、あの形式を選んだ。
勇気を出した結果があれだった。
いまなら、そう言える。
「……ほんと。悪かったなと思ってる」
言いながら、胸がほんの少しだけ苦しい。
彼に惹かれていたあの頃の自分を、いまようやく肯定できた気がした。
妹が思考を巡らせているようすを黙ってみていた衝馬は、椅子の背にゆったりともたれ、片足をもう片方の膝に乗せた。動きが豹のようにしなやかだ。
「〈評価手続き〉は順調そうだな」
評価手続き。そう言われると微妙な気持ちにはなるが、ズレてはいない。あえてその言い方を選ぶのが、実にこの兄らしい。
「進んでるよ。だいぶね」
「ふーん。いいね」
「軽いなぁ」
「そんなことはない。土を軽んじると、何を植えても育たないんでね……」
唐突な比喩を投げてよこしながら、衝馬はしばらく、何か考えるように視線を上にやっていた。しばらくはマカダミアナッツを黙って噛み砕いていたが、やがてぽつりと訊いた。
「……おまえ、トキと飯とか食ってるのか」
「まあ、うん。たまにね」
そう思歩が答えると、衝馬の口元がわずかにゆるんだ。
「よかったよ。あいつ、一人だと碌なもん食わねえからな」
「そうなの?」
「食べはするが、足りないな」
彼の部屋を訪れたときに見た、あの冷蔵庫。
炭酸水、調味料、ジャム、それから氷。〈食べる〉という行為の痕跡がまるでない寒々しさがあった。
「そういえば、冷蔵庫もからっぽだった」
それを聞いた衝馬が小さく失笑する。
「あいつ冷蔵庫持ってんのか? 絶対いらねえだろ」
冷蔵庫だけではない。ベッドもほとんど使われていなかった。
〈自分のため〉の段取りが、彼の一日のどこにも組み込まれていない。
――それを、誰も止められなかった。
思歩は心の中で、小さく付け足す。
そのとき、玄関の方で鍵の音がした。母の「ただいま」という声が廊下を滑って耳に届く。「おかえり」と言いながら、思歩は玄関へ出向く。濡れた土の匂いが室内に忍び込んできた。
玄関先では母が、両手に吊るしたエコバッグを地面に下ろすところだった。母は思歩を見ると、パッと口元に手を当てる。
「あら! もう着いちゃってたの? お兄ちゃんがいて驚いている思歩の顔が見たかったのにー」
思歩は曖昧に笑って、肩をすくめた。母も笑い返す。そんなやり取りには目もくれず、衝馬は母娘の脇をすり抜けて、無言でエコバッグの中身を覗き込む。
「それ、キッチンに持ってってくれる?」と母が言うと、衝馬はやはり無言のままエコバッグを両手に台所へ消えた。
「思歩。夕飯、食べてくわよね?」
「うん」
返事をしながら、思歩は窓の外を見た。
夕立がアスファルトを洗っている。
家の中に人の声とご飯がある。家の中で笑って過ごせる。当たり前のように思われているそれが、どれほど尊いことか。
――次に会ったら、また、何か作ろう。
少しだけでも食べてもらえれば、それでいい。




