48.微糖の午後
外商サロンを辞し、案内係に一礼して廊下を戻る。時刻は九時半。腕時計の針は、思ったよりも進んでいなかった。感覚としては、三十分ほど舞台にでも立っていたような気分だ。
フロアの一角にあるメンバーズラウンジの灯りが、すでに点いていた。出勤前に、少しだけ時間を潰すことにする。
照明は落とし気味。カウンター席の奥にスタッフが控えている。おれはスタッフに軽く会釈した。
「ブレンドをお願いします。砂糖もミルクも結構です」
そう頼んで、スーツの上着を脱ぐ。そうするとこもっていた緊張も一気にゆるんだ。
窓際の席に腰掛けて、先ほど会った結栞さんを思い出す。
姉と二、三の会話をしたら、折を見て彼女を探すつもりだったのだが。時間を示し合わせたから、扉の近くにいてくれるのだろうとは思っていた。だが、実際には自然と姉の後ろに控えていた。直接紹介されるほど距離を詰めて。
その姿に、おれは恐れすら抱いた。
――結栞さんが味方で、本当によかった。本当に。
もし彼女が〝敵〟だったら。
思歩とは別れることになっただろう。自分の意志で。そうしなければ、彼女を守れない。そこまで追い詰められる。
たとえば、ご縁があるとそれとなく周囲に伝え、職場に小口の取引を持ちかけ、取引の礼の体裁で実家に連絡する。
家柄が釣り合う「ふさわしい」取り合わせだと印象づけたうえで、既成事実のように軽い会食をセッティングする。拒めば、誰かの顔を潰す構図にして……
スタッフの「お待たせいたしました」という声とともに、音もなくコーヒーカップが置かれた。黒い液面に、自分の姿がゆらいで映る。カップに口をつけ、コーヒーを舌にのせてから、喉へ通す。
……否定は説明過多で言い訳に見える。「お似合いですね」と言われて無表情のままでは空気が凍る。笑うしかないが、それは了承と取られる。
噂を打ち消すには思歩の名を出すしかなく、彼女を〈噂〉の輪に引きずり込むことになる。
そうしないためには黙らざるを得ないが――沈黙は、肯定へと変換される。
こうして個々の所作が積み重なり、やがて〈事実〉になる。
トランクショーの前に立ったときにも感じた、あの独特の空気感。言葉より先に空気が秩序を決め、礼儀が思惑を包み隠すようなあの世界。
不可視の領域で事が進み、外から見えるのは覆しようのない事実のみ。
おれの武器は、理屈と、少しの胆力だ。だが、かの世界にはそもそも交渉のテーブルがない。おれのやり方は、ほとんど通じない……。
席を立つ。
まだ一般の客がいない百貨店のフロアは、静まり返っていた。開店準備中のショップの奥から、コーヒーマシンの低い音が聞こえる。
さっきまでの社交の空気が、まだ体の内側に張りついているようだった。
*
昼を過ぎても、空腹を感じなかった。感じる暇がなかった、と言うほうが正確かもしれない。
午前中は会議を二本。昼食を飛ばして資料のチェック。気づけば、外は夕刻に差しかかっていた。
社内の自販機の前で立ち止まり、スマホを取り出す。何を飲もうか考えて――視界がわずかに暗転しかけた。
反射的にジャケットのポケットを探る。
革の名刺入れの奥に、薄いチャック付きの小袋がある。ラムネだ。
二粒を口に放り込む。
甘さが舌に触れた瞬間、甘味が血に変わるような錯覚とともに、たちまち目が冴える。
――また食事を抜いてしまった。
空腹になると頭が冴えてくるように感じられるのも良くなかった。
手に持っているスマホが震えて、視線を落とす。
画面にはメッセージの通知。思歩からだった。文字を見た瞬間、彼女の声の調子が浮かぶ。
『今日、ちゃんと食べましたか?』
――どうしてわかるんだ。
たった一文で、張りつめていた何かがほどける。
返信を打つ前に、またラムネをひと粒噛む。
『まだ何も。これから買います。』
そう打って送信する。自販機では何も買わずに踵を返す。
約束を果たすように身体が動き、駅前の小さなグロサリーに入る。自動ドアが開くと、小さなチャイムとともに冷気が頬に触れ、白い蛍光灯が目を刺した。
店内を一巡する。ボトルウォーターの棚を抜け、デリのケースの前で足が止まった。
ラザニア、鶏の黒酢、ローストビーフのサンド、ポテトサラダ……。
どれにも手が伸びない。
――いま、何が食べたい?
自分に問うてみても、返事がない。
――じゃあ、なにを食べるべき?
心は相変わらず沈黙を貫いている。
食欲の形が、うまく、思い出せない。
ワインの棚で無意識に立ち止まる。ラベルの列をぼんやりと眺める。
――違う。いまは食べるものだ。
そう言い聞かせて歩きだす。
立ち止まるのも億劫で、惰性でデリの前へ戻ってみる。
そろそろ決めないと。
単純なものがいい。味という情報量の少ないもの。
熟考の末、だし巻き玉子サンドを取る。しばらく眺めて、棚に戻すか迷って、結局カゴに入れた。
レジを済ませ、会社へ戻る。
デスクに腰を下ろして、袋の口を開いた。パンの香りがかすかに立つ。口元まで運ぶ――
内ポケットの社用携帯が震えた。
もう片方の手で反射的に取り上げて応じる。
短い打ち合わせの確認、納期の話、次の予定。
受け答えをするうちに、手元のサンドイッチが乾いていくのがなんとなく気になる。
通話を切って、もう一度、手元のサンドイッチを見つめる。
包みを折り畳みなおして、袋に戻す。納期の話が出たので、PCを立ち上げてガントチャートを開く。
――買うとは、言ったけど。
そこから先、どうしていいのかが抜け落ちていた。




