47.鎮火
結栞は動くことにした。祖母筋の古参支援者、ホテルの宴席で名の出た家々へ、淡々と電話を回す。
ところが、どこも既に「鷹津側からも丁重な否定が入ったところだ」と口を揃える。
――火消しが、ほとんど済んでいる。
ただ、いささか手際が良すぎる、という懸念はあった。
早すぎる鎮火はときに逆効果になる。早急な対応は、「やはり何かあるのでは」と噂に信憑めいた確信を与えるからだ。
実際、空気の片隅にそんな匂いが残っているのを、結栞は感じ取っていた。
それでも、着実に温度は下がりつつある。もう誰も、あえて焚きつけようとまではしないだろう。そこまでやって利益を得そうな者もいない。
(だけど、時仁さんとは一度、顔を合わせておきたい)
当事者が人目のある場で、さりげなく「それは事実ではない」と言う。正式声明ではないぶん、噂に燃料を与えない。噂から物語を奪い、自然鎮火の方向へ流せる。
何より、時仁さんにはきちんとお礼を伝えたかった。
書面ではなく、直接会って。
――幸い、〈舞台〉には当てがある。
百貨店外商のジュエリー・トランクショー。
来客の中心は婦人会員だが、入口での伝言だけなら男性が顔を出しても不自然ではない。むしろ、家の用向きを伝える場としては都合がいい。
選ぶのは外商サロンの前――人通りがあり、足を止めずに会釈と一言で済む、公の〈通路〉だ。
ここで二、三分、挨拶の体裁だけ交わせば十分。
この手の会は口コミの流れが早い一方で、公式な発表の場ではない。薄い否定が静かに広がるだけで、炎上はしにくい。
そう判断して、結栞は私製便箋に短く一文をしたためたのだった。
そして、彼とメールで何度かやり取りをした末に、彼から最後の返事が帰ってきた。
ご提案の趣旨、確かに承りました。
当日は〈百貨店外商サロン前ロビー〉にて短時間、ご挨拶のみ失礼いたします。
ご指定の時刻に伺います。
鷹津時仁
文章は短く、穏当で、完璧に整っていた。
返事をもらえた嬉しさよりも、彼がこの件にきちんと向き合ってくれていることに安堵する。
*
サロン前のロビーは、厚い絨毯が靴音を飲み込み、静けさに包まれていた。ガラス扉をくぐった先には展示台が整然と並び、その傍に白手袋のスタッフが控えている。
「桂良木様、お待ちしておりました」
受付の女性に軽く一礼し、招待状を差し出す。控えめな頷きとともに来場バッジが手渡された。そのとき——
「まあ、桂良木さんでいらっしゃいますか」
すぐ横から、穏やかな声。振り向くと、上品な微笑みを湛えた婦人が微笑んでいた。とろみのあるシルクサテンのボウタイブラウスに、薄墨のフレアスカート。初対面の緊張はあったが、女性の目にはやわらかな光が宿っている。
「はじめまして。わたくし、吾鶴 衣代と申します」
軽く目を開く。お会いするのは初めてだったが、当然、名は知っていた。お見合い相手の〈家族〉の情報を先んじて押さえておくのは、当然の礼儀である。
「……桂良木 結栞でございます。お目にかかれて光栄ですわ、吾鶴夫人」
「〈弟〉がお世話になっているようで。結栞さん、とお呼びしてもよろしいかしら」
夫人の旧姓は〈鷹津〉。
時仁さんのお姉さまのお一人で、鷹津家の長女。
「もったいないお言葉でございます。ぜひ結栞とお呼びくださいませ」
「ありがとう。わたくしのことも、どうぞ衣代とお呼びになって」
「恐れ入ります、衣代さま」
外商の担当が少し離れていくのを目で追いながら、衣代は展示台の上に視線を落とした。そこにはプラチナと花珠真珠を組み合わせたネックレスが並んでいる。
「こちらを見せてくださる?」
衣代がひとつのトレイを示す。スタッフが白手袋の手でそっとガラスケースを開け、二人の前にネックレスを差し出した。
光を反射するパールを見つめながら、結栞は控えめに頷く。
「柔らかなお色味ですね。日中のお席にも合いそうですわ」
「ええ、これくらいがちょうどよろしいわね」
衣代が静かに笑った。その口元に、どこか時仁さんの面影がある。
しばらく二人でガラス越しの展示台を眺めていた。会話が落ち着いたところで、衣代が何気ない調子で口を開く。
「うちの弟ったら、最近ずいぶんと〈可愛い〉贈り物を用意したのよ」
「まあ」
結栞は思わず笑みをこぼした。衣代の声には揶揄の色こそあったが、愛情も多分に混じっていた。
「カルティエの細いブレスレットですわ。貴女の腕には少々軽いかしらと思いまして。そう伝えたのですけれど、聞き入れてもらえたのかしら?」
冗談めかして言う衣代に微笑みかけながら、結栞の頭では計算が走る。
(これは、使わせていただくべきだわ)
運がいい。時仁さんがお膳立てしたというわけではなさそうだが。お姉さまは、噂を否定するのにちょうど良い〈振り〉をくださった。
結栞はゆっくりと――こちらのようすを何気なく伺っている人たちにも伝わるように、首を振ってみせた。
「わたくしは、何も頂いておりませんわ」
衣代の瞳が、わずかに瞬く。
「……まあ。そうでしたか?」
「ええ。時仁さまには、きっと素敵なお相手がいらっしゃるのでしょう」
そう告げる。衣代の唇に、かすかに苦笑が浮かぶ。彼女の中で、ひとつの点が線に変わった気配があった。
「……わたくしったら、早とちりをしてしまったようですわね。あの子ったら、こういうことにはいつも説明が足りないの」
衣代の声に茶目っ気が混じる。
そのとき、スタッフが静かに衣代のほうへ歩み寄る。声を落として囁いた。
「失礼いたします。鷹津様がロビーにてご挨拶をとのことです。お姉さまからお伝えごとがあるとか……」
「まあ、花世が? 珍しいこと」
「衣代さま、わたくしも鷹津様にご挨拶させていただきたく存じます」
「もちろんですわ。どうぞいらして」
衣代は結栞を伴ってロビーへと向かう。ほどなくロビー側の扉がわずかに開き、時仁さんが姿を見せた。グレーのスーツに淡いネクタイ。敷居を越えず、前室に立ったまま二人へ丁寧に一礼した。
「ほんのご挨拶だけ失礼いたします。花世姉さんからひと言託されまして。ご案内のお礼だけ申し上げに参りました」
「ありがとう。……ああ、こちらは桂良木家の結栞さんよ。当然、知っていらっしゃると思うけれど」
「ええ、もちろん……」
彼は、後ろに控えている結栞にふと視線を向ける。その表情に、疑問らしき色が一瞬だけ掠めて消えた。
「……お久しぶりです、桂良木様。先日の件は収束しつつあります。ご配慮に心より感謝申し上げます」
結栞も前へ半歩寄り、同じく短く頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます。お手を煩わせてしまいまして」
「とんでもないことです」
彼が淡々と謙遜する。結栞は衣代のほうへ向き直ってから告げた。
「先般の噂は取り違えにてございました。どうぞご放念くださいませ」
耳に残りやすいが角の立たない否定語を、丁寧に仕込む。
「ええ、私見ながら誤解と存じますわ。では、そのように」と衣代が応じる。
やり取りは、それで足りた。
彼は衣代に目を向け、軽く会釈する。
衣代が肩の力を抜いて、くすりと笑う。
「相変わらず、用が済むと風のようですね」
「今回ばかりは、何卒お目溢しを。――では、失礼いたします」
彼はもう一度だけ会釈し、扉の向こうへと身を引いた。
その去っていく背中を見送ってから、結栞は小さく息をついた。




