46.理性の過熱
紙コップのコーヒーを片手に、エントランスへ戻る。富久谷課長が、自販機の横でスマホを見ていた。課長はおれに気が付くと片手を上げた。
「お、鷹津。おまえも戻るとこか」
「はい。午後は会議詰めです」
「お互いさまだな」と富久谷課長が笑い、缶コーヒーのボタンを押してから決済端末にスマホをかざした。
ガタン、と落ちる音。
取り出し口に手を伸ばしながら、ちらりとこちらを見る。
「……それで? 彼女とは順調なのか?」
おれは咄嗟に笑みを返した。表情は少し硬いだろうか。できるだけ柔らかい言葉を選ぶ。
「それはちょっと踏み込みすぎですよ、富久谷課長」
「そうかあ。すまんな」
「いえ。……結婚式にはお招きしますから」
失言。言ってしまってから後悔する。冗談で済ませたくない言葉だ。軽口に本音を混ぜたら、足元を掬われるとわかっているのに。
「はは、そりゃ楽しみだ。——覚えとくぞ」
そう笑って、富久谷課長は缶コーヒーを一気に飲み干した。そのまま、空の缶を据え付けのゴミ箱に突っ込む。
エレベーターが来た。乗り込む富久谷課長が、扉の向こうで軽く指を立てた。
「いい報告を待ってる」
「はい。ありがとうございます」
閉まりかける扉に、小さく頭を下げる。
「……」
紙コップを傾け、舌の上にコーヒーを流し入れる。
こういうとき、何も考えずに「ありがとうございます」と言ってしまえるこの舌が、どうにも嫌だな。
心を置き去りにして、理性が勝手にしゃべっているような。誰かが勝手におれの口を借りて喋っているような。そんな居心地の悪さがある。
デスクに戻ると、総務の若手が封筒の束を片手にやってきた。
「営業一課分、社内便が届いてます」
「ありがとう。ここでいいよ」
案件進行中の見積書、申請書の控え、回覧、押印依頼。そんな社内便の束の中に一通だけ、質の違う封筒が混じっていた。
取り上げてみる。薄い生成り。小ぶりで、封緘には朱の印も社名の角印もない。表書きは万年筆の細字で、宛名だけが端正に縦書きされていた。
海外営業部第一課 鷹津時仁様
「……私信か」
取引先からの礼状だろうか、と考えながら、はさみで封を切る。
中から現れたのは、淡いグレーの罫だけが入った私製の一枚紙。紙質は上等だが、レターヘッドはない。
内容に目を落として、固まる。社内で目にするには、少々心臓に悪い名前が載っていた。
先日の件につきましては、迅速なご対応を賜り誠にありがとうございました。
ささやかではございますが、直接お礼を申し上げる機会を頂けましたら幸いです。
ご多忙の折恐縮ですが、短時間で結構です。人目のある場所にてお願いできればと存じます。
桂良木 結栞
名前の下に、メールアドレスが書かれている。
肩書きはない。〈家〉の話もない。丁寧で、かつ誤解を避けるための配慮が行き届いた書き方だ。だが――やましい約束を、証跡を最小化して取りつけるときの定型にも、似ている。
(なんか、不倫をするときの連絡の取り方みたいだよな、これ……)
そんなはずはない。
どれもこれもただの配慮にすぎない。そう断言できる。だが、それらが組み合わさると〈解釈〉の余地が生まれる。
宛先のみの私信。個人アドレスのみ記載。社内便に紛れ込ませ、痕跡を残さない。
読み手の先入観ひとつで、礼節の文面が一瞬で「密会の段取り」に化ける。
そういう見え方が、いちばん危ない。
……とりあえず、思歩にはこのことを共有しておこう。不安の芽は摘んでおくに限る。
『桂良木のご令嬢から連絡をいただきました。一度は直接お会いすることになりそうです。』
返事はすぐにきた。
『承知しました。ご共有ありがとうございます。』
〝承知しました〟という業務連絡が、これほどありがたいとは。
必要以上に妄想を膨らませない。事実を事実として受け取ってくれる。
いつも通りの彼女だ。助かる。
おれは引き出しの奥からハンドシュレッダーを引っ張り出して、便箋を差し込んだ。細切れの紙がゴミ受けに吐き出される。
ゴミ受けを外し、それの中にはさみを突っ込んで刃を動かし、さらにバラバラにする。
空の紙コップの中にそれを詰め込み、きっちり蓋をしてから、ゴミ箱に落とした。
「……」
証拠隠滅にしても、少し、やりすぎた。
だが、止めようとする発想すら浮かばなかった。間違った処理ではないから止める必要はないのだが、それにしても。
……なぜ、ここまで徹底しないと安心できないんだろう。どうしてこんなに落ち着かないんだろうな。
おれは、自分で思っているよりもずっと、混乱しているらしかった。




