45.灰の底の種火
結栞は祖母と母、叔父に呼ばれ、桂良木邸の食卓についた。漆の卓に灯りが落ち、土瓶蒸しの湯気がゆるく立ちのぼっている。
錫の薬味入れに酢橘が二つ。椀の蓋をずらすと、松茸の香りが静かに広がった。
「鷹津のご次男とはその後、どうなのかしら?」
母が何気なく言う。
声音に棘はない。むしろ愉快そうですらあった。
「……そのお話は、お断りされたではありませんか」
結栞は静かに言った。
「貴女がそう思っていても、周りはそう取らないものよ。お仕事もしっかりされているし、家柄も申し分ないもの。悪い話ではないでしょう」
「ただの噂ですわ」
叔父が苦笑して割って入る。
「だとしても、世間は〈よい取り合わせ〉と見るさ。財団にとっても損はない。むしろ、良縁だろう」
結栞は微かに眉を動かした。
「時仁さんは噂についてご存知ないのでしょう。こちらが沈黙すれば、むしろ失礼になります」
「誤解も縁のうちだよ、結栞。本当になるかもしれないじゃないか」
結栞は背筋を伸ばした。
声を荒げるわけにはいかない。ただ、息を深く吸う。
「そんな形でご縁を得たいとは思いません」
母は首をかしげて微笑んだ。
「真面目さんねえ。世の中は理屈だけでは動かないのよ」
「まあまあ、そんな怖い顔をなさらないで」
祖母――八重夫人が話に入ってきた。
白髪をきちんとまとめ、淡い藤色の着物を纏っている。茶会の最中でもあるかのように、穏やかに微笑んでいた。
「時仁さんは、よい〈お婿さん〉になりますよ」
お婿さん。
空気が一瞬止まる。母が小さく笑った。
「お義母様、またそういうことを……」
「あの子のことは、幼いころから存じていますとも。祝いの席で、誰に言われずとも茶碗の数を揃えてね。レディの椅子を静かに引いて、足りないものを補って。教えなくてもできたのよ」
確かに、そういう方だと思った。
ホテルラウンジで、にこやかに紅茶を嗜んでいた彼の姿を思い出す。
所作の滑らかな男性だった。
あの短いやり取りの中でも、彼は場の温度を測っていた。歩調を合わせて、少しこちらをリードしたら、あとは場の流れに任せる。流れが滞ったら、さりげなく助け舟を出して誘導する。
誰に見せるでもなく、当然のように気を配る。それを努力と悟らせることすらしない。
「礼儀正しい、良い方だったでしょう? お話しして楽しかったと言っていたじゃないの」
「それは……。はい」
話が弾んだ。きっとお互いに性格や育ちが似ているからだと思った。話題をわざわざ補足する必要もなく、打てば響くように反応がある。そんなことは男性との会話ではほとんど初めてで、とても楽しかった。
だが、同時に危うさも感じた。
――あの穏やかさの下に、一体どれほどの緊張を抱えているのだろう、と。
「婿にも後継にも相応しい。取りまとめも、折り合いもお上手で。お話し振りもよろしいから、いざとなれば先達にも立てましょう。結栞、あの方が隣にいたら、桂良木も十年は安泰でしょうね」
褒めているのか、決定を告げているのか、判別のつかない口調。
性格が似ているからこそ。結栞はふと気にかかる。
彼の中に流れている緊張の種類を、結栞は知っていた。自分もまた、似た重みをもつ静けさを身につけてきたからだ。
だが、彼の場合はその静けさが、習慣で駆動しているようにも見えた。
結栞は、それを〈演目〉と割り切っている。自分を一時消し去って場をやり過ごす処世の一環だと心得ている。
だが、彼は――その世渡りの術が〈自分〉を削り取る諸刃の剣であることを、自覚できているのだろうか。
「困ったときはあの方の隣にいなさい。支えてくださるわ。支えることを負担と思わない方だから」
穏やかに、しかし確信のある声だった。
おそらく、祖母の言うことは正しい。
結栞は膝の上で手を重ねて、視線を落とした。
――支えてくださる、ではない。
彼はもう、誰かと支え合っているのだ。
彼は紳士的に接する一方で、その内には演技も打算もある。
しかし、他者からの期待を何よりも優先できてしまう人でもあるのだ。
どうしても譲れないものを、胸の内に秘めているにもかかわらず。
お見合いのとき、「心に決めた人がいる」とまっすぐ告げた声を思い出す。どんな方かと尋ねれば、言葉こそ少なかったが、大切に思っていることははっきりと伝わった。
――誰かのために動く。それが、きっと彼なりの呼吸のやり方なのだ。
だからこそ、彼がこの〈火〉に巻き込まれるのを見るのは、怖い。
この火は、彼の誠実さを飲み込んでしまうだろう。あの善意を、家の都合で差し出させることができる。彼の本当に譲れないものに対して、譲歩を強いてしまう。
それだけは避けなければ。
「……ですが、そんなこと、まだ何も――」
「何もないからこそいいのです。火が小さいうちに囲えば、きれいに燃えますからね」
祖母の笑みはやさしかった。
結栞は口を閉ざす。母も、叔父も、それ以上は何も言わない。
退室の許しが出て、扉の前で軽く一礼する。背後からは茶器の音さえしなかった。
部屋に戻り、机に向かう。
財団のレターヘッドを一度取り出す。指先が紙をつまんだところで、やめた。
私製の便箋を引き出しから出す。罫線の薄い白紙に、ゆっくりと万年筆を走らせた。




