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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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45.灰の底の種火

 (ゆい)()は祖母と母、叔父に呼ばれ、(かつ)良木(らぎ)邸の食卓についた。漆の卓に灯りが落ち、土瓶蒸しの湯気がゆるく立ちのぼっている。

 錫の薬味入れに酢橘が二つ。椀の蓋をずらすと、松茸の香りが静かに広がった。


(たか)()のご次男とはその後、どうなのかしら?」


 母が何気なく言う。

 声音に棘はない。むしろ愉快そうですらあった。


「……そのお話は、お断りされたではありませんか」


 結栞は静かに言った。


「貴女がそう思っていても、周りはそう取らないものよ。お仕事もしっかりされているし、家柄も申し分ないもの。悪い話ではないでしょう」


「ただの噂ですわ」


 叔父が苦笑して割って入る。


「だとしても、世間は〈よい取り合わせ〉と見るさ。財団にとっても損はない。むしろ、良縁だろう」


 結栞は微かに眉を動かした。


時仁(ときひと)さんは噂についてご存知ないのでしょう。こちらが沈黙すれば、むしろ失礼になります」


「誤解も縁のうちだよ、結栞。本当になるかもしれないじゃないか」


 結栞は背筋を伸ばした。

 声を荒げるわけにはいかない。ただ、息を深く吸う。


「そんな形でご縁を得たいとは思いません」


 母は首をかしげて微笑んだ。


「真面目さんねえ。世の中は理屈だけでは動かないのよ」


「まあまあ、そんな怖い顔をなさらないで」


 祖母――八重夫人が話に入ってきた。

 白髪をきちんとまとめ、淡い藤色の着物を纏っている。茶会の最中でもあるかのように、穏やかに微笑んでいた。


「時仁さんは、よい〈お婿さん〉になりますよ」


 お婿さん。

 空気が一瞬止まる。母が小さく笑った。


「お義母様、またそういうことを……」


「あの子のことは、幼いころから存じていますとも。祝いの席で、誰に言われずとも茶碗の数を揃えてね。レディの椅子を静かに引いて、足りないものを補って。教えなくてもできたのよ」


 確かに、そういう方だと思った。

 ホテルラウンジで、にこやかに紅茶を嗜んでいた彼の姿を思い出す。


 所作の滑らかな男性(ひと)だった。


 あの短いやり取りの中でも、彼は場の温度を測っていた。歩調を合わせて、少しこちらをリードしたら、あとは場の流れに任せる。流れが滞ったら、さりげなく助け舟を出して誘導する。

 誰に見せるでもなく、当然のように気を配る。それを努力と悟らせることすらしない。


「礼儀正しい、良い方だったでしょう? お話しして楽しかったと言っていたじゃないの」


「それは……。はい」


 話が弾んだ。きっとお互いに性格や育ちが似ているからだと思った。話題をわざわざ補足する必要もなく、打てば響くように反応がある。そんなことは男性との会話ではほとんど初めてで、とても楽しかった。

 だが、同時に危うさも感じた。


 ――あの穏やかさの下に、一体どれほどの緊張を抱えているのだろう、と。


「婿にも後継にも相応しい。取りまとめも、折り合いもお上手で。お話し振りもよろしいから、いざとなれば先達にも立てましょう。結栞、あの方が隣にいたら、桂良木(うち)も十年は安泰でしょうね」


 褒めているのか、決定を告げているのか、判別のつかない口調。


 性格が似ているからこそ。結栞はふと気にかかる。

 彼の中に流れている緊張の種類を、結栞は知っていた。自分もまた、似た重みをもつ静けさを身につけてきたからだ。

 だが、彼の場合はその静けさが、習慣で駆動しているようにも見えた。


 結栞は、それを〈演目〉と割り切っている。自分を一時消し去って場をやり過ごす処世の一環だと心得ている。


 だが、彼は――その世渡りの術が〈自分〉を削り取る諸刃の剣であることを、自覚できているのだろうか。


「困ったときはあの方の隣にいなさい。支えてくださるわ。支えることを負担と思わない方だから」


 穏やかに、しかし確信のある声だった。

 おそらく、祖母の言うことは正しい。


 結栞は膝の上で手を重ねて、視線を落とした。


 ――支えてくださる、ではない。

 彼はもう、誰かと支え合っているのだ。


 彼は紳士的に接する一方で、その内には演技も打算もある。

 しかし、他者からの期待を何よりも優先できてしまう人でもあるのだ。

 どうしても譲れないものを、胸の内に秘めているにもかかわらず。


 お見合いのとき、「心に決めた人がいる」とまっすぐ告げた声を思い出す。どんな方かと尋ねれば、言葉こそ少なかったが、大切に思っていることははっきりと伝わった。


 ――誰かのために動く。それが、きっと彼なりの呼吸のやり方なのだ。


 だからこそ、彼がこの〈火〉に巻き込まれるのを見るのは、怖い。

 この火は、彼の誠実さを飲み込んでしまうだろう。あの善意を、家の都合で差し出させることができる。彼の本当に譲れないものに対して、譲歩を強いてしまう。

 それだけは避けなければ。


「……ですが、そんなこと、まだ何も――」


「何もないからこそいいのです。火が小さいうちに囲えば、きれいに燃えますからね」


 祖母の笑みはやさしかった。

 結栞は口を閉ざす。母も、叔父も、それ以上は何も言わない。


 退室の許しが出て、扉の前で軽く一礼する。背後からは茶器の音さえしなかった。


 部屋に戻り、机に向かう。

 財団のレターヘッドを一度取り出す。指先が紙をつまんだところで、やめた。

 私製の便箋を引き出しから出す。罫線の薄い白紙に、ゆっくりと万年筆を走らせた。

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