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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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44.防火線を張る

 最初に電話をかけたのは、父だった。

 朝七時。まだ家にいる時間帯を狙う。


『ずいぶん早いな』


「早い方がいい。――確認したいことがあります」


 敬語に切り替えて、それだけで父は何やら察したようだった。低い溜め息が聞こえた。


『……朝から物騒だな、時仁(ときひと)


「まだ何も言ってませんよ」


『あの後、桂良木にはきちんと連絡を入れたんだろうな?』


「済ませましたよ。その件です。先方の秘書を通じて申し上げていますが、正直、訂正としては受け取られない公算が大きい。……不本意ですが、父さんの〈声〉もお借りすることになろうかと思います」


 一瞬の間があった。おれは続けて問う。


「『順調そうだ』と仰ったのはどなたですか」


『桂良木の旧知だ。『若い〈二人〉が良い関係にあると聞いております』とな。笑い話程度だったがね』


 やはり、そこが中心か。


「その〈二人〉が誰を指していたか、明言はされましたか」


『名は出なかったが、言ったも同然だ。皆、同じ顔を思い浮かべたろう。鷹津と桂良木の〈若い世代〉で会場に顔を出したのは、お前と彼女だけだったのだから』


「……。もしかして、桂良木のご令嬢も、その場に?」


『ああ、乾杯だけ参加して、あとは下がった』


 くそ、見落とした。意識が散っていた。あのときは最低限の挨拶だけは済ませたからと、ぼんやりしすぎた。

 ……いや、気づいたところで、手はなかったか。


「ありがとうございます。この件は、『当家として現時点でその事実はない』の一点張りでお願いできますか」


『わかった』


 父の了承を聞き届けてから、通話を切った。そのまま、先日ビリヤードをしたPEファンドのプリンシパルへ短いメッセージを打つ。別に日本語でも良かったが、英語のほうが短く、過不足なく伝わるのでそうする。


 それに、彼が〈噂〉を耳にしたとしたら、それは日本語ではなく、外資のネットワーク内――英語での会話だろう。


Quick one about that rumor: what exactly did you hear?

噂話の件で確認したいんですが、正確にはどんな言い回しを聞きました?

“Dating”? “Seeing each other”? “Close to an engagement”?

「付き合ってる」? 「会ってる(親しい)」? それとも「婚約間近」?

I’d like to correct it politely.

丁寧に訂正したいので。


 返事はすぐに来た。


“Close to an arrangement.”

「話がほぼまとまりかけている(取り決め寸前)」

Not from me. Just overheard.

私の発言じゃないですよ。小耳に挟んだだけ。


Arrangement。取り決め、交渉、契約——要は〈家同士の段取り〉の含み。なるほど、〈婚約〉と誤解されてもおかしくない。


 ――投資の文脈なら、「提携に向けて家同士が歩調を合わせ始めた」とも読み取れるだろう。

 完全な誤解。

 だが、誤解でも値は動く。


 決め手には欠けるが、噂を走らせる燃料には足りる。放っておけば、いつか〈事実〉として扱われる。今のうちに流れを止めなければ。




 翌日の午後、父の紹介で文化財団の古参実務家に会う。桂良木グループの名誉会長が理事長を務めており、父も顧問として顔を出している財団だ。


 ラウンジの最奥、厚手のカーテンで仕切られた一角に通された。革張りの匂いと、ウイスキーの甘さが漂っている。

 向かいの老人は、香りを確かめるように鼻先を近づけ、親指と人差し指でグラスを軽く回したのち、口を開いた。


「おめでたい話だそうじゃないか」


 穏やかな笑みを湛えてこそいたが、目の奥には探りの色がある。


「桂良木のご令嬢との話でしたら、誤解です」


「おや。そうかね?」


「その〝おめでたい話〟を最初に口にしたのは、どなたでしたか」


 老人はグラスを傾け、少し考えるようにして言った。


「桂良木の古参支援者だよ。名誉会長の旧友筋だ。『若い者同士、そろそろ』と」


 父から聞いた話と一致している。


「否定する者がいなかったんでしょうね」


「そうだ。君の親父さん、鷹津の人間さえも否定しなかった」


「父は、知らなかったんです。……私に恋人がいることを」


 伝えていなかった。ただ、それだけのことだ。

 家族に報告するような段階じゃないと、どこかで決めつけていた。

 思歩との関係は、どこまでも私的なものでありたかった。家や肩書の外で、ただ一人の人間として向き合える関係で。


 ――そんなこと、できやしないのに。

 今となっては、ただの言い訳だ。


「なら、君自身がいなかったのが痛いな」


 老人は小さく息を吐き、グラスを置いた。


「いまさら誰が言ったかを突き止めて何になる。火は消えんよ」


「はい。存じております」


 自分でも驚くくらい、静かな声だった。


「だからこそ、ここで囲っておきたいんです。話が外に出ないように」


 老人の口角がわずかに上がる。


「君は、親父さんよりもずっと実務的だな」


「恐縮です」




 夕方、少し荒んだ顔のままデスクへ戻る。こういうとき、多少の融通が利く営業でよかったと心底思う。


 椅子の背にジャケットを掛け直し、あえてゆっくりと腰掛ける。

 爪先でデスクを二度、軽く叩く。


 噂はまだ社内には入っていない――が、時間の問題だろう。外資側が〈婚約前提の提携〉と()()し、内部で話題にしていなければ、PEファンドの耳に入るはずもない。


 ちょうどそのとき、次長が席に戻ってくるのが見えた。


 ……〈自分のため〉の根回しも済ませておくか。念のためだ。

 おれはすぐに立ち上がり、次長席に向かった。


「すみません。お時間よろしいでしょうか」


 次長が顔を上げた。物腰は柔らかいが、社内の伝達は速い人だ。彼に通しておけば、然るべき報告系統(レポートライン)を通って共有されるだろう。


「念のため共有です。社外で少々誤解が生じており、私の名前が出回っています」


「ふむ。風聞の類か?」


「そうです。もし耳にしても、社内での言及は避けていただけますか。何か聞かれたら、私に振ってもらえると助かります」


 声のトーンは低く、淡々と。次長は眉をわずかに上げた。


「それは構わないが。そこまで気にするほどのことか?」


「こうした誤解は早めに消したいんです。私的なパイプとして見られるのを避けたい。公私混同を疑われて、評価にバイアスがかかりますので」


 次長は短くうなずいた。


「そういうことか。わかった。注意しておく」


「ありがとうございます」


 短いやり取りで終わったが、十分だ。


 仕事に、直接の支障はない。だが、こういう風評は、時間をかけて信用の地盤を侵す。

 〈鷹津〉の名が全面に出た瞬間、誰も結果そのものを見なくなる。


 本音を言えば、実績一本で測られたかった。

 だが、 現実には〈名前〉という看板が、他人の目に常に割り込んでくる。

 おれの名前は、おれの意思だけでは切り離せない。たとえ名字を替えたところで、本質は変わらない。


 なら、それでいい。使えるものはすべて使う。

 名前も、資金も、人脈も、技術も――運さえも。


 そして最後におれが残すのは、誰の名でも覆せない結果だ。

 誰の名義でもない、誰が検証しても同じ結論に至る〈事実〉だ。


 火種は明確。燃焼している範囲も当たりはつけた。

 あとは囲うだけだ。

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