43.沈黙の証明
待ち合わせは、初めて〈婚前契約書〉の話をした、あのダイニングバーだった。
外観も、看板も、何も変わらない。
扉を閉めると、それだけで外の喧騒が遠ざかった。
「久しぶりに来ますね」
思歩が小さく笑った。
マスターに案内され、店の奥へ。
半個室は、天井レールに吊られた厚手のカーテンで半分囲われていた。視線は遮られ、音だけが通る。
中には、L字の革張りベンチと低い木のテーブル。ペンダントランプが手元だけを照らし、カーテンの向こうの笑い声と氷の音が薄く布越しに滲む。
完全な密室ではないが、外の目は届かない。手を伸ばせば隣の指先に触れられる距離感だ。
銅のマグを差し出される。モスコミュール。前と同じだ。
氷をかき混ぜながら、思歩が言う。
「……何か、ありましたか?」
すでに、不穏な空気に気がついている。
おれは息を整えて言葉を選んだ。
「前に、お見合いをした件だ」
思歩はただ頷いて、先を促す。
「おれと桂良木の令嬢が――つまり、お見合い相手だが、彼女と交際しているという噂が広がっている。根拠はまだないはずだけど。対処を考えている」
静寂。思歩はまっすぐこちらを見た。
「……そうですか」
それだけ。淡々とした声。
だが、マグを持つ手がわずかに揺れた。
「噂が広まってしまうのは、仕方のないことです。特にあなたは……」
「おれは?」
思歩はちょっと言い淀んだが、口を開いた。
「あなたは、素敵な人ですから。お見合いをしたら、相手に気に入られてしまうんじゃないかって、実は不安でした」
「そんなふうに言われたの、初めてだな」
思わず笑ってしまう。嬉しい――彼女がそう感じるほどに、自分を信じてくれていた事実が。だが、同時に胸が痛む。不安にさせてしまったことへの後ろめたさがある。
「そうだな。相手とは、少し話が合いすぎた。育ち……いや、」
勝手に走り出そうとする言葉を呑み込む。
「とにかく、おれ自身は誰かに気に入られるような人間じゃない。きみが見てくれている、おれは……」
言いながら、手持ち無沙汰に空のマグを持ち上げる。ふいに生まれた熱をなだめるように、冷えた表面が掌に張りついた。
「あなたが訂正してくれるなら、それで充分」
思歩はいつもの調子で言う。だが「充分」という言葉が、不思議なくらいに遠く感じられた。
あのときも、こんな顔をしていた。
お見合いの話をした日。少し泣きそうな顔だと思った。
今ならわかる。
彼女の冷静さは、優しさから来ている。決して何も感じていないわけではない。
伝えようとした言葉が霧散する。
ごめん、では足りない。
守る、いや……火種はおれなんだから。マッチポンプがすぎる。
空っぽのはずのマグが、重く感じられる。
ただ、もうどうしようもなく――抱きしめたい。
気づいたときには、体が動いていた。
思歩の手を取る。彼女は小さく息を呑んだ。
理性が「やめろ」と警告を出す、その声を無視する。
もう片方の指先で、彼女の頬にゆっくりと触れる。
頬から髪へ、そして肩へと。
乱暴にはならないように、彼女の身体を抱き寄せる。
思歩の身体は一瞬だけ硬直したが、すぐに力を抜いた。
その呼吸が首元に当たる。
心臓の音がうるさい。
「あの……私は、大丈夫ですよ?」
「……わかってる。しばらく、このままでいさせてくれる? おれのわがままだ」
彼女の腕が、おれの背にそっと触れる。
押し返すでもなく、ただ確かめるように。
「……どうしたんですか?」
柔らかい声だった。
「言葉で説明できそうになくて」
彼女を確かめたかった。あるいは、自分を。
慰めたくて、申し訳なさで張り裂けそうで、この瞬間を失いたくなかった。
思歩がわずかに笑った。
「じゃあ、説明できるようになるまで、このままでいましょうか?」
「……ありがとう」
そう言って、どれほどの時間が過ぎたのか。おれは腕の力を抜き、彼女から少しだけ身体を離して、正面からその目を見る。一瞬、彼女の瞳がわずかに揺れた。
「思歩。おれは、きみが好きだよ」
それは、ようやく言葉という形に収まった――そう告げるだけの勇気を得た言葉だった。
「だから、この噂には必ず蹴りをつける」
思歩は何も言わない。小さく頷く。口元は、さっきよりもほんの少し和らいでいた。
*
帰宅してすぐ上着を椅子の背に掛け、浴室へ直行する。シャワーを捻り、肩から順に水を受け、髪に指を入れて流す。
思歩を抱きしめたあの温度を残したままでは、きっと、冷静に動けない。
冷静さを取り戻さなければ。
そう思うのに、掌や胸元に残る感触は消えない。
水を止める。タオルでざっと拭い、脱衣所へ。
濡れた前髪の先から一滴、顎を伝って落ちる。
洗面台を覗く。鏡の中にいる男と視線がぶつかって、すぐに目を逸らした。
――こんな顔、思歩には見せられないな。




