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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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43.沈黙の証明

 待ち合わせは、初めて〈婚前契約書(プレナップ)〉の話をした、あのダイニングバーだった。

 外観も、看板も、何も変わらない。

 扉を閉めると、それだけで外の喧騒が遠ざかった。


「久しぶりに来ますね」


 思歩が小さく笑った。


 マスターに案内され、店の奥へ。

 半個室は、天井レールに吊られた厚手のカーテンで半分囲われていた。視線は遮られ、音だけが通る。


 中には、L字の革張りベンチと低い木のテーブル。ペンダントランプが手元だけを照らし、カーテンの向こうの笑い声と氷の音が薄く布越しに滲む。

 完全な密室ではないが、外の目は届かない。手を伸ばせば隣の指先に触れられる距離感だ。


 銅のマグを差し出される。モスコミュール。前と同じだ。

 氷をかき混ぜながら、思歩が言う。


「……何か、ありましたか?」


 すでに、不穏な空気に気がついている。

 おれは息を整えて言葉を選んだ。


「前に、お見合いをした件だ」


 思歩はただ頷いて、先を促す。


「おれと桂良木の令嬢が――つまり、お見合い相手だが、彼女と交際しているという噂が広がっている。根拠はまだないはずだけど。対処を考えている」


 静寂。思歩はまっすぐこちらを見た。


「……そうですか」


 それだけ。淡々とした声。

 だが、マグを持つ手がわずかに揺れた。


「噂が広まってしまうのは、仕方のないことです。特にあなたは……」


「おれは?」


 思歩はちょっと言い淀んだが、口を開いた。


「あなたは、素敵な人ですから。お見合いをしたら、相手に気に入られてしまうんじゃないかって、実は不安でした」


「そんなふうに言われたの、初めてだな」


 思わず笑ってしまう。嬉しい――彼女がそう感じるほどに、自分を信じてくれていた事実が。だが、同時に胸が痛む。不安にさせてしまったことへの後ろめたさがある。


「そうだな。相手とは、少し話が合いすぎた。育ち……いや、」


 勝手に走り出そうとする言葉を呑み込む。


「とにかく、おれ自身は誰かに気に入られるような人間じゃない。きみが見てくれている、おれは……」


 言いながら、手持ち無沙汰に空のマグを持ち上げる。ふいに生まれた熱をなだめるように、冷えた表面が掌に張りついた。


「あなたが訂正してくれるなら、それで充分」


 思歩はいつもの調子で言う。だが「充分」という言葉が、不思議なくらいに遠く感じられた。


 あのときも、こんな顔をしていた。

 お見合いの話をした日。少し泣きそうな顔だと思った。

 今ならわかる。

 彼女の冷静さは、優しさから来ている。決して何も感じていないわけではない。


 伝えようとした言葉が霧散する。

 ごめん、では足りない。

 守る、いや……火種はおれなんだから。マッチポンプがすぎる。


 空っぽのはずのマグが、重く感じられる。

 ただ、もうどうしようもなく――抱きしめたい。


 気づいたときには、体が動いていた。

 思歩の手を取る。彼女は小さく息を呑んだ。


 理性が「やめろ」と警告を出す、その声を無視する。


 もう片方の指先で、彼女の頬にゆっくりと触れる。

 頬から髪へ、そして肩へと。

 乱暴にはならないように、彼女の身体を抱き寄せる。

 思歩の身体は一瞬だけ硬直したが、すぐに力を抜いた。

 その呼吸が首元に当たる。

 心臓の音がうるさい。


「あの……私は、大丈夫ですよ?」


「……わかってる。しばらく、このままでいさせてくれる? おれのわがままだ」


 彼女の腕が、おれの背にそっと触れる。

 押し返すでもなく、ただ確かめるように。


「……どうしたんですか?」


 柔らかい声だった。


「言葉で説明できそうになくて」


 彼女を確かめたかった。あるいは、自分を。

 慰めたくて、申し訳なさで張り裂けそうで、この瞬間を失いたくなかった。

 思歩がわずかに笑った。


「じゃあ、説明できるようになるまで、このままでいましょうか?」


「……ありがとう」


 そう言って、どれほどの時間が過ぎたのか。おれは腕の力を抜き、彼女から少しだけ身体を離して、正面からその目を見る。一瞬、彼女の瞳がわずかに揺れた。


「思歩。おれは、きみが好きだよ」


 それは、ようやく言葉という形に収まった――そう告げるだけの勇気を得た言葉だった。


「だから、この噂には必ず蹴りをつける」


 思歩は何も言わない。小さく頷く。口元は、さっきよりもほんの少し和らいでいた。




 *


 帰宅してすぐ上着を椅子の背に掛け、浴室へ直行する。シャワーを捻り、肩から順に水を受け、髪に指を入れて流す。


 思歩を抱きしめたあの温度を残したままでは、きっと、冷静に動けない。


 冷静さを取り戻さなければ。

 そう思うのに、掌や胸元に残る感触は消えない。


 水を止める。タオルでざっと拭い、脱衣所へ。

 濡れた前髪の先から一滴、顎を伝って落ちる。

 洗面台を覗く。鏡の中にいる男と視線がぶつかって、すぐに目を逸らした。


 ――こんな顔、思歩には見せられないな。

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