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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第5章 離婚・変更・紛争解決

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42.火の粉

 合同ミーティングはホテルの会議フロアで行われた。相手は外資のPEファンドだ。

 会議が終わって廊下に出ると、先方のプリンシパル――投資実行を仕切る責任者――が待っていた。ネクタイを緩め、軽く片手を上げる。


「少し()きません? ラウンジにテーブルがあるんです」


 仕事のあとの習慣らしい。断る理由もなかった。


 低い照明に緑の卓。英語がそこかしこで飛んでいる。

 隣のテーブルの二人が、キューを立てかけて笑った。


二対(Mind a )二でど(doubles)う?(game)


いい(Sure,)ですね(why not.)


 彼が答え、自然にチームが決まる。


 打順を交互に決め、ブレイクは相手側。散った玉を見て、彼が肩をすくめる。


「うまく残したな」


「運も実力のうちさ」


 相手チームが最初の一球を沈める。相方に交代してさらに狙うが、わずかに外した。交代の順に従い、こちらに手番(キュー)が回ってくる。ショットを交わすうち、英語が定着していく。


 彼に促され、キューを取り、軽く構えたところで――。


「ところで、桂良木嬢と交際中だとか?」


なん(What)だって(the hell)?」


 思わず声が出た。手は声よりも早く動いていた。構えていたキューをいったん上げる。


「どこでそんな話を聞いた?」


 彼はテーブルの上から目を離さないまま軽く笑って、台を回り込む。


「上の〈サークル〉で、名前が並んでいてね」


 一次情報を取りに来た、という顔だった。

 桂良木物産とは、仕事では無縁だ。だが、〈家〉の話題になれば避けられない。

 上級職位(プリンシパル)である彼との関係だってそうだ。業務上は彼が上席だが、〈家名〉が会話の重力を水平に近づける。


「お似合いだって評判だよ」


「勘弁してくれ……」


 おれは首を振って、再びキューを構えた。白球を突く音が、短く響く。


「光栄ですけど、名前ばかりが先行するのは少々落ち着かないね」


別に(You’re)悪い(saying)ことじゃ(that like)ない(it’s a)だろう(bad thing.)


名前に(Depends on)よるかな(the name.)


 沈黙。空気がやや冷える。

 彼が軽く笑って肩を叩いた。


「冗談だよ。真面(You’re)(too)すぎ(serious.)


 〈冗談〉を手仕舞いにする定型文に、おれも応じる。


性分(Can’t help)(it.)


 そう、どうしようもないのだ。おれは〈真面目すぎ〉て、ときどき直裁に心のうちを見せてしまう。英語だとなおのこと。

 口の端だけで笑う。照れ隠しだった。


「じゃあ、他に誰かいるのかな?」


 相手にとってはほんの軽い探りだったはずだが、気づけば口が先に動いていた。


いる(I do.)


 一瞬、相手の笑みが固まる。

 誓いに等しい肯定だった。

 無言のまま、イージーを淡々と沈める。短い打球音が落ちる。


「君の番だ」


「あー……なるほど。わかった」

 彼はつぶやきながらキューを持ち上げる。

「その噂はもう忘れるよ」


「助かります」


 それきり余計な言葉はなかった。

 残った数球を淡々と落とす。ゲームも、会話も、どちらも滞りなく幕を引いた。握手を交わして終わる。


 ラウンジを出ると、外は夜だった。

 タクシーを拾う。

 少しだけ火照っている。頭の奥にこもる熱が引かない。さっきの会話が、皮膚の裏でくすぶっているようだった。


 ——日本語なら、もう少し上品にはぐらかせたのにな。

 英語は、いつも余計に本音を引きずり出す。


 父の声がよみがえる。


 ――小火だからと侮るなよ。


 一度ついた火は、完全には消えない。

 言葉の火種は放置すれば燃え広がり、訂正が遅れれば炎になる。いまもどこかで煙が上がっている気配がある。


 一人で消すには、もう手遅れか。

 後手に回りすぎた。


 むしろ、桂良木物産のレセプションに顔を出しておいてよかった。そうでなければ、いったいどこまで話が進められたか。どこまで〈既成事実〉が積まれただろう。

 そう考えて、少しゾッとする。


 窓の外を流れる灯りを眺めながら、思歩の顔を思い浮かべた。

 こんなことに彼女を巻き込みたくない。そういう気持ちは、まだある。


 だが、それと知らせないまま放置するのは別だ。彼女はもう無関係ではない。おれの隣に立ってくれている。この誤解を水面下で消そうとすれば、必ず彼女を傷つけるだろう。

 まず、事実を共有しなければ。


 携帯を取り出し、スケジュールアプリを開いた。

 今週の夜で、彼女と会える時間を探す。

 ちゃんと話そう。そう思うのに、思考は整理されないまま、指先だけがスケジュールをなぞっていた。

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