42.火の粉
合同ミーティングはホテルの会議フロアで行われた。相手は外資のPEファンドだ。
会議が終わって廊下に出ると、先方のプリンシパル――投資実行を仕切る責任者――が待っていた。ネクタイを緩め、軽く片手を上げる。
「少し撞きません? ラウンジにテーブルがあるんです」
仕事のあとの習慣らしい。断る理由もなかった。
低い照明に緑の卓。英語がそこかしこで飛んでいる。
隣のテーブルの二人が、キューを立てかけて笑った。
「二対二でどう?」
「いいですね」
彼が答え、自然にチームが決まる。
打順を交互に決め、ブレイクは相手側。散った玉を見て、彼が肩をすくめる。
「うまく残したな」
「運も実力のうちさ」
相手チームが最初の一球を沈める。相方に交代してさらに狙うが、わずかに外した。交代の順に従い、こちらに手番が回ってくる。ショットを交わすうち、英語が定着していく。
彼に促され、キューを取り、軽く構えたところで――。
「ところで、桂良木嬢と交際中だとか?」
「なんだって?」
思わず声が出た。手は声よりも早く動いていた。構えていたキューをいったん上げる。
「どこでそんな話を聞いた?」
彼はテーブルの上から目を離さないまま軽く笑って、台を回り込む。
「上の〈サークル〉で、名前が並んでいてね」
一次情報を取りに来た、という顔だった。
桂良木物産とは、仕事では無縁だ。だが、〈家〉の話題になれば避けられない。
上級職位である彼との関係だってそうだ。業務上は彼が上席だが、〈家名〉が会話の重力を水平に近づける。
「お似合いだって評判だよ」
「勘弁してくれ……」
おれは首を振って、再びキューを構えた。白球を突く音が、短く響く。
「光栄ですけど、名前ばかりが先行するのは少々落ち着かないね」
「別に悪いことじゃないだろう」
「名前によるかな」
沈黙。空気がやや冷える。
彼が軽く笑って肩を叩いた。
「冗談だよ。真面目すぎ」
〈冗談〉を手仕舞いにする定型文に、おれも応じる。
「性分で」
そう、どうしようもないのだ。おれは〈真面目すぎ〉て、ときどき直裁に心のうちを見せてしまう。英語だとなおのこと。
口の端だけで笑う。照れ隠しだった。
「じゃあ、他に誰かいるのかな?」
相手にとってはほんの軽い探りだったはずだが、気づけば口が先に動いていた。
「いる」
一瞬、相手の笑みが固まる。
誓いに等しい肯定だった。
無言のまま、イージーを淡々と沈める。短い打球音が落ちる。
「君の番だ」
「あー……なるほど。わかった」
彼はつぶやきながらキューを持ち上げる。
「その噂はもう忘れるよ」
「助かります」
それきり余計な言葉はなかった。
残った数球を淡々と落とす。ゲームも、会話も、どちらも滞りなく幕を引いた。握手を交わして終わる。
ラウンジを出ると、外は夜だった。
タクシーを拾う。
少しだけ火照っている。頭の奥にこもる熱が引かない。さっきの会話が、皮膚の裏でくすぶっているようだった。
——日本語なら、もう少し上品にはぐらかせたのにな。
英語は、いつも余計に本音を引きずり出す。
父の声がよみがえる。
――小火だからと侮るなよ。
一度ついた火は、完全には消えない。
言葉の火種は放置すれば燃え広がり、訂正が遅れれば炎になる。いまもどこかで煙が上がっている気配がある。
一人で消すには、もう手遅れか。
後手に回りすぎた。
むしろ、桂良木物産のレセプションに顔を出しておいてよかった。そうでなければ、いったいどこまで話が進められたか。どこまで〈既成事実〉が積まれただろう。
そう考えて、少しゾッとする。
窓の外を流れる灯りを眺めながら、思歩の顔を思い浮かべた。
こんなことに彼女を巻き込みたくない。そういう気持ちは、まだある。
だが、それと知らせないまま放置するのは別だ。彼女はもう無関係ではない。おれの隣に立ってくれている。この誤解を水面下で消そうとすれば、必ず彼女を傷つけるだろう。
まず、事実を共有しなければ。
携帯を取り出し、スケジュールアプリを開いた。
今週の夜で、彼女と会える時間を探す。
ちゃんと話そう。そう思うのに、思考は整理されないまま、指先だけがスケジュールをなぞっていた。




