41.小さな誤解
スマホの着信音で目が覚めた。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。遮光カーテンのおかげで室内は薄暗い。手探りでスマホに手を伸ばし、なんとか目を開けて画面を見る。
父、の文字が浮かんでいた。
「はい……もしもし」
『お前、来週の金曜は空いているのか』
唐突。だが寝起きの頭にスッと入ってくる。声の調子からして、急用ではない。
「行こうと思えば、出られるよ。十六時くらいかな……」
『寝起きか? もう十一時だぞ』
「休みなんだよ……」
これだからベッドでは寝たくない。眠りすぎる。アラームの音もまったく聞こえなかった。予定がまったくない日でなければ、とてもベッドでは寝ていられない。
無理やり体を起こして、頬を強めに叩く。ちょっと頭が冴えてきた。
「で……何があるんだよ」
『桂良木物産のレセプションだ。取引先向けのな』
桂良木。結栞さんの家だ。先のお見合いを思い出して、なんとなく苦い気持ちになる。彼女に悪感情はまったくないのだが。いかんせん、再会のタイミングが悪すぎた。
『母さんの都合が合わなくてな。例によって兄貴は動けん。代わりに同席してほしい』
またか、と息を吐いてしまう。代理を押し付けられるのが嫌だからじゃない。心配事は別にある。十歳年上の兄が官僚だからだ。
「そろそろ本気で心配になってくるな。兄さんはちゃんと生きてるのか? 本当は棺桶に入ってておれにだけ情報を伏せてたりしないだろうな」
「するわけがないだろう。あれが何年やってると思うね? 生きてるとも。ピンピンしているさ」
それはそれでどうなんだ。兄はあまりにも働きすぎだ。せめて、体を壊してないといいが。
「代理出席は問題ないよ。父さんと行くってことでいいのか」
「そうだ。久しぶりに向こうの名誉会長にも会う。席を空けるのも体裁が悪いからな」
「わかった」
通話が切れると、画面に「通話時間 01:42」と表示された。
端的な要件と軽口だけで済む、父子らしい会話。
寝室を出てリビングへ向かう。ローテーブルの上には飲みかけのコーヒーが残っていた。中身をシンクにあけ、カップをゴミ箱に捨てる。
——まあ、今回も代理。何事もなく終わるだろう。
*
金曜の午後、社内の会議を一つ切り上げてオフィスを出た。フレックスを使えば、定時よりも早く抜けられる。
レセプション用のスーツで出社はできないが、幸い、ホテルで更衣室を借りられると聞いている。スーツ一式はガーメントバッグに収めて、ネクタイとチーフだけ別のポーチに入れてある。
タクシーを降りると、ロビーにはすでに父の姿があった。
更衣室でシャツを替え、ネクタイの結び目を締め直す。指に少しだけワックスを伸ばし、髪を撫でつける。ジャケットを羽織り、胸にチーフを差した瞬間、鏡の中のおれは〈鷹津家の次男〉になる。
手首に香水を吹き付け、時計を巻き直していると、父が現れた。
「行けるか」
「はい」
父と並んでホワイエを進み、ボールルームの前へ。
〈桂良木物産 取引先懇親会〉と書かれた立て札の前で、受付嬢が一礼した。
名札を受け取ると、スタッフが厚い扉を押し開ける。空調の冷気がふっと肌を撫でた。
点在している丸テーブルには白いクロスと、中央に小さな花の装飾。ホールの奥では、黒いドレスの奏者たちが弓を動かしている。
父は結び目を親指で軽く整え、差し出されたフルートグラスを受け取って一口だけ含んだ。
「少し挨拶してくる。お前は適当に話していなさい」
「はい」
父が去るのを見届けてから、通りかかったスタッフのトレイからフルートを一つ受け取った。
壇上で社長が挨拶を始め、ほどなく来賓の祝辞に移る。経団連の理事、省庁OB、どの名前にも聞き覚えがあった。
乾杯の声が響き、グラスがいっせいに傾く。
ひとしきり挨拶を済ませてから、空のフルートをスタッフに下げてもらい、白ワインのグラスをもらう。
遠目で会場を眺めながら白ワインを含んでいると、父の声が横から届いた。
「桂良木に会った。名誉会長もお元気だったよ」
おれはグラスを口元につけたまま、視線だけを父へやった。
そりゃ会うだろう。目的の一つでもある。なぜわざわざおれに共有するのか。……いや、雑談の範疇か。
「向こうはなんて?」
「順調らしい、と」
父は軽く息をついた。わずかに空気が張る。
「お前は桂良木にずいぶん気に入られているな。昔からそうだったかもしれん。あちらの事情を考えると、お前みたいのが欲しいんだろうが」
一瞬、脳が理解を拒否した。
「確かにお前は〈婿養子〉でもやっていけそうだがね。うちとしても問題はないが」
父はそれ以上の意味を込めるでもなく、淡々と告げていた。
おれはやっとのことで口を開いた。
「その件は、もう終わってる。ちゃんと断ったはずだ」
「断っただけで満足したのかね? 口約束には証拠が残らん。外堀を埋められたら終いだ。お前にとっては、特にそうだろうな」
おれは押し黙る。父はカナッペを持ち上げて口に放り込んだ。
「惜しい話だと思うがね」
「ご心配なく。紹介したい人はいる。そのときになればきちんと話すよ」
父は笑いもせず、ビールの入った小さなタンブラーを取った。
「お前が決めたことならそれでいい。だが、それなら向こうへは今一度、連絡を入れておけ」
「ああ」
「小火だからと侮るなよ」
「わかってる」
父が小さく頷いて、再び人の輪へ吸い込まれていく。
おれはテーブルの上に空のワイングラスを置いた。指先に、わずかな汗が滲むのを感じながら。




