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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第4章 情報・プライバシー・行動規範

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40.試飲会

 廊下の奥から、低く控えめな音楽と、ざわめきと、グラスが触れ合う音がかすかに響いてくる。白いライトが彼女のジャケットに淡く反射して、ブレスレットがわずかに光る。


「入ろうか」


「はい」


 返事の声は落ち着いている。

 おれのほうはずっと落ち着かない。表情には出ていないはずだが。


「受付はあちらです。お名刺を頂戴できますか。お連れさまも、宜しければ……」


 名刺が二枚、受付テーブルに並ぶ。


 扉の向こうは、バーラウンジを貸し切った会場だ。

 琥珀色の照明が床に広がり、壁一面のボトルが淡い光を返している。小さなテーブルがいくつも並び、そこに数十人ほどの男女。香水の匂いが混ざって、空気がわずかに甘い。


 最初はスパークリングだ。立ちの軽い柑橘の香りに、磨いた木の匂いとローストナッツが重なる。


 グラスを二つ受け取って、手渡した。彼女の指が一瞬触れる。それだけで心拍が乱れそうになる自分に呆れる。


「鷹津さん、ようこそ。お久しぶりです」


 輸入商社の広報マネージャーが笑顔で近づいてきた。ボリュームは小さいのによく通る声だ。


「ご無沙汰しています。すてきな会場ですね」


「今夜はローヌが中心ですよ。――それにしても、ご同伴とは珍しい」


「お初にお目にかかります。野江田と申します」


 自然だ。名刺を差し出す手つきも、会話の受け方も。

 思歩は場の温度を調整しようとはしない。だが、淡々と言葉を調整していく、その感覚が正確だ。不要な謙遜をしないのもよい。


(大丈夫そうだ)


 そう思ってから、心のどこかが少しゆるんだのを自覚する。軽く顎を引いて、スイッチを入れ直す。中途半端に気を抜くのがいちばん危ない。


「鷹津くん、来てたんだね」


 背中から声がかかる。業界紙の編集長と、古い取引先の課長が並んで現れた。


「こんばんは」


「お連れの方は?」


「野江田です」


「はじめまして。お仕事は何を?」


「法律関係です。今夜は勉強させていただきます」


 思歩は肩書きを言い切らない。名刺を受け取ったものだけが彼女の職能を知る。深入りの導線は作らないが、質問の余白を残す。

 編集長はすぐ冗談に舵を切った。


「なら、裏話は控えないとね」


「ええ、守秘の範囲でお願いします」


 場に笑いがさらりと広がる。思歩は「弁護士」という壁を厚くしない。必要な分だけ薄い膜を張る。場に同化しようとはせず、目の前の相手だけを見る。おれには真似できないやり方だが、その距離感の正確さに、妙な安心を覚える。


 グラスを手に、次の輪へ移る。商社の若手、百貨店のバイヤー、元同僚。名刺入れがみるみる軽くなる。会場の温度が少しずつ上がっていく。

 自社(うち)と付き合いのあるバイヤーが苦笑気味に話しかけてきた。


「今季はかなりタイトです。船も空も読みにくい。御社のラインは指名が強いので、多少の遅れはお待ちしますよ」


「恐縮です。待たせっぱなしにはさせませんよ。分納で入る分は先行で出します」


 話題の芯を温存したまま、会話は次のテーブルへ。


「黒オリーブのタプナードと相性がいいですよ」


 スタッフが勧めたローヌワインを手に取る。グラスを近づけ、ほんの少しだけ香りを確かめる。

 おれが先に口を開いた。


「オリーブが先に来ますね」


「角を残したほうも好きですが、今日は丸いほうが合うかも」


 思歩が応じる。嗜好の言語化が社交の適正に収まっている。


 中盤になると、テーブルが輪をつくり、輪がまた別の輪に吸収される。おれは二手三手と声をかけられ、話の流れに合わせて笑い、相槌を打つ。知り合いを繋ぎ、紹介し、たまに受け流す。


 人の流れがゆるみ、思歩が自然におれの隣へ戻る。その先で新しい輪に入る。初対面の経営者がひとこと、思歩に向けて質問を投げた。


「弁護士さんだと、こういう場は退屈じゃありません?」


 笑顔の厚みに比べ、目が笑っていない。探りを入れられている。思歩は一瞬、間を置いたが、柔らかい笑みを浮かべながら、やはり淡々と答えた。


「いいえ。退屈かどうかは、こちらの準備次第ですから」


 周囲の笑いが一瞬遅れて起こる。

 相手の目も笑った。探りが引く。経営者はあっさり頷いて、「素敵な考え方だ」とグラスを上げた。思歩も小さく上げる。

 クリーンヒットではない。論破はしない。芯を外した絶妙な当たり。安全に、確実に、一塁に出るだけ。


(おれが口を出す必要はなさそうだな)


 そんな言葉がふっと浮かぶ。自嘲の色を含まないことに驚いた。おれがしゃしゃり出る出番がない。場の温度を計り、言葉を噛み砕き、相手の刃を受けて丸め直す——いつもの役目を出さずに済む。彼女に背中を預けて、立てる。


 終盤には人の輪はほとんど解けて、窓際のスペースに余白ができた。窓の外にホテルの中庭が沈んでいた。


「大丈夫?」


 おれが聞くと、思歩は少しだけ笑って、グラスを傾けた。


「楽しいですよ。想像より、ずっと」


「……。退屈じゃない?」


「〝準備〟してきましたから」


 冗談か本気か分からない口調で言って、ブレスレットの留め具を指先でそっとなぞった。


「似合うって言ってくれて嬉しかったです」


「似合うと思って選んだんだ。ずるい褒め方だよな」


 ふと気が緩んで、言わなくてもいいことまで言ってしまう。彼女はただ笑った。


 主催者が短い挨拶をして、会は終業の合図を受け取る。クローク前を通り、エレベーターへ向かう。


 扉が閉まる。クリーム色の壁が照明を柔らかく返すエレベーターの中で、つかの間、二人きりになる。扉上に表示された数字がひとつずつ下がっていくのを見ながら、思歩が浅く息を吐いた。


「……お疲れさまでした」


「こちらこそ。すごく助かった」


「いえ。私は何も」


 言葉はそれ以上続かないが、沈黙が心地よい。ホテルのロビーに降りると、人の気配が薄い。


「今日はありがとう。送らせてくれ」


「ありがとうございます」


 車寄せでタクシーを一台つかまえる。後部座席に並んで腰を下ろすと、微かに革の匂いがした。


 タクシーが静かに動き出す。沈黙のあいだ、試飲会での光景がいくつも思い返される。


(思歩は……人前に出しても粗相がない)


 自己嫌悪を伴う感想だった。できれば、そんな言い方で彼女を括りたくはなかった。だが、配偶者に求める要件としては外せない。こういう社交の場からはもう逃げられない。逃げるつもりもない。


 それでも、今夜はふいに逃げ出したくなった。久しぶりに。

 彼女とだけ話したい。言葉を過剰に磨かず、思いつくままに感想を投げ合って、くだらない話で笑いたい。

 そんな幼い欲求が消えてくれない。


 窓の外に首都高の灯りが流れていく。いくつかの高架を過ぎるうちに、胸の高鳴りもゆっくり落ち着いていく。


 マンション前で、車体が歩道に寄せられた。思歩は片足を外へ出してから、ふいにこちらを振り返った。


「誘ってくださってありがとう。楽しかったです」


「うん。おやすみ」


 それだけの言葉を返すのに胸が詰まるほど、どうしようもなく満たされている自分がいた。

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