4.親友の妹
婚活の予定が連続した週だった。
慣れない人付き合いに神経を削り、土曜の夜には完全に電池が切れていた。
部屋に戻ってジャケットだけ脱ぎ、ローテーブルにスマホを置く。その隣に電池の切れたApple Watchを放り、ソファに倒れ込んだのが最後の記憶だった。
そのまま、ソファで寝落ちしてしまったらしい。
背中が微妙に痛い。まぶたが重い。テーブルの上に置きっぱなしのスマホが震えた気がして、ぼんやりと手を伸ばす。
画面には、未読のメールがひとつ。
送信時刻は昨夜。おれが寝入った直後くらいだった。
差出人を見て、寝ぼけていた頭が少しだけ冴える。
from:野江田 思歩
懐かしい名前だった。LINEじゃなくてメールというのも彼女らしい。
思歩――親友の妹。たしかおれ達の四つ下だ。
――――――
お久しぶりです。突然のご連絡すみません。
少し変わった話になるのですが、「契約結婚」という形でのご相談ができればと思っています。
詳細な条件などは下記ドキュメントにまとめました。
ご興味があれば、ご確認いただけると嬉しいです。
(急ぎではありません)
https://Google……
――――――
Googleドキュメントのリンクが添付されていた。
けいやくけっこん。
……契約結婚?
「は?」
声が出た。頭が一気に覚醒する。
ウイルスじゃないよな? と思って送信元を見る。
間違いなく、思歩のアドレスだった。
「え?」
メールアドレス乗っ取られたのか?
落ち着け。ドッキリかもしれないし、冗談かもしれないし、悪ふざけかもしれない。
だが、あの子がそういう軽いノリでこんな文面を送ってくる姿は想像できなかった。
もう一度、本文を読み返す。
契約結婚。
詳細はドキュメントに。
急ぎではない。
GoogleドキュメントのURLがひとつ。
開く勇気は、今のところ、ない。
おれはスマホを再びローテーブルの上に伏せ、ソファに突っ伏した。
寝起きの頭ではとても処理できない爆弾だった。
*
結局、一時間ほど寝直した。顔を洗ってコーヒーを淹れる。
スマホを見てみるが、やはり夢ではなかった。
おれはしばらくそのメッセージを見つめた。
「考えても仕方ないか……」
ひとつ深呼吸して、メッセージアプリを開く。
宛先は思歩ではない。
野江田 衝馬。思歩の兄だ。
衝馬とは幼稚園からの付き合いだ。
だが大学を出た瞬間に「世界を救うには土壌改良しかない」と言ったきり、どこかに行ってしまった。どうやら農学の研究をしているらしいが、どこにいるかはわからない。日本にいないことだけは確かだ。
衝馬のほうから連絡をよこすことは滅多にない。もし連絡をもらったら、真っ先に考えるのは「死んだのか?」だろう。心臓に悪い。
時差は考慮できないが、仕方ない。
だが衝馬は、どこにいようが、いつも爆速で連絡に応じる。このときもそうだった。
三コールで、のんびりとした声が聞こえてきた。
『よお。おひさ』
普段は一通り近況を聞いたり雑談をしたりするのだが、今日のおれは余裕がなかった。真っ先に本題に入った。
「なあ、おまえの妹っていま何してる?」
唐突な質問に、衝馬は一瞬だけ考えるような沈黙を保ったが、すぐに口を開いた。
『さあね? 生きてるとは思うけど。おまえのほうが詳しいんじゃないか? 日本にいるんだろ』
「おまえが日本にいないんだからわざわざ会わないだろ。……でも、さっき彼女から『契約結婚しませんか』ってメールが来たんだよ」
『契約結婚? なんだそりゃ。結婚がそもそも契約だろ』
「いや、そうなんだけど……」
衝馬にメールの詳細を伝えると、彼は面白そうに笑っていた。
『おもしろ。まあ、思歩ならやりそうだけどな』
反応が軽すぎる。
こっちは人生の岐路みたいな通知を受け取った直後なんだが。
「結婚だぞ。おれたちだけで済む問題じゃない。止めたほうがいいんじゃないか?」
『そうか? 俺はめっちゃ応援するよ』
「はあ?」
『お前となら、あいつもうまくやれると思うし』
「兄としての情とかないのかよ。反対とか、心配とか」
『多少はね。でもこういうときの思歩は誰が何言っても止まらないと思うぞ。ターゲットにされてるお前しか向き合えないんだよ。かわいそうに』
言葉が出なかった。ほんとに勘弁してほしい。
『あいつに何かされたら、そのときは殴ってでも止めてやるよ。……まあ、俺は今ナイロビだけど』
「それはまた……。ナイロビのどこ?」
『マチャコス』
おれは地図を思い浮かべた。
ナイロビはケニアの首都だ。アフリカ東部にある大都市で、国際線の拠点にもなっている。
その東に広がる丘陵地帯がマチャコス。農業が盛んな地域だが、都市の郊外といっても渋滞や道路事情を考えれば訪れるのは半日仕事になる。
『コーヒーの木とマカダミアを混植したときの、根圏の相互作用を調べてる」
「そうか。この前、エルドレットに寄ったんだ。会いに行けばよかった」
エルドレットはケニア西部の高原都市。ナイロビから飛行機で一時間だ。
『いいよ。遠すぎるだろ。いったん日本に帰るつもりだし、その時に会おう。――じゃあな。よい契約を』
通話を終えて、ため息をひとつ。
常識を求めて連絡したはずが、常識の対岸から石を投げられたような気分だった。
「まあ、確かに。あの子なら、やりかねないか……」
そう思ってしまうのは、たぶん昔の記憶のせいだ。
初めて彼女と会ったのは、衝馬に呼ばれて野江田家に遊びに行ったときだった。おれ達が中学生で、彼女がまだ小学三年くらいの頃だ。
玄関をくぐった途端、台所から妙にお説教じみた、まだ舌足らずな声が滔々と聞こえてきた。
何かと思えば、母親相手に熱心にプレゼンしている女の子がいた。
「砂糖と塩は似すぎだから、容器を色で分けるべきだと思う! ねえ、お兄ちゃんたちもそう思わない?」
衝馬は話を聞いてなさそうだったし、おれもまだ子どもだったので「どうでもいいな……」という表情を隠すこともしなかった。
野江田のお母さんはおっとりと笑って、「将来はお父さんと同じ弁護士になるんですって。楽しみねえ」と言っていた。
……言っていた。
好奇心か、懐かしさか、あるいは単に暇だったのか。
おれは結局、添付されていた「契約書」のリンクを開いてしまった。
Googleドキュメントが開かれ、タイトルには太字で《婚姻契約書(草案)》。
意外と文字数は少ない。せいぜい三〇〇〇文字程度だ。
だが、冒頭の一文で気圧された。
――――
前文
甲(氏名:【 】)と乙(氏名:【 】)は、婚姻に先立ち、生活上および財産上の取り決めを明確化するため、本契約(以下「本契約」といいます。)を締結します。本契約は、甲乙の婚姻届が市区町村において受理された日を停止条件として効力を生じます。
――――
ガチだった。
おれもいっぱしの社会人だから、契約書はそこそこ読んできている。だが、どうにも頭に入ってこない。無心でスワイプをする。そして、巻末でふと指が止まった。
――――
なお、本契約はあくまで草案であり、締結に際しては別途対面協議を要する。
署名・押印の前に、当職が改めて説明責任を果たすことを誓約する。
――――
最後の一文でようやく、思歩の〝声〟が聞こえた気がした。
なるほど。どうやら、伏線は回収済みらしい。
だが、今のおれにはそれを読解する気力がない。
得られたものは、「変な話だけど、思歩ならやりかねない」という最低限の保証だけだ。
おれはそっと息を吐いた。