38.+1の約束
出勤前、ダイニングテーブルに腰掛けて手帳を広げる。右手でペンを持ち、左手でスマホのメールアプリを開く。
メールが溜まっている。プライベートのメールが。
とはいえ、おれの人間関係に依拠したプライベートだ。完全な私事にはなりえない。
――まずは、ゴルフ。
来週土曜の早朝。先方は老舗ベンダーの役員と部長、自社は役員とおれで四人。
外せないやつだな。おれは帯同だ。受付、進行、会計まで面倒を見る係。
ティーオフは8:00。カレンダーに書きこむ。前日に打ちっぱなしで肩慣らしといきたいが、金曜は飲み会が入る可能性が高い。水曜か木曜に回そう。
当日の天気予報は曇り。まあ、悪くない。
――次は、業界レセプション。
再来週木曜の夜、都心ホテルの中宴会場。開場は十八時半。ビジネスフォーマルの場だ。タイピンをどこへやったかな。
名刺は三十枚で足りるか。補充しておく、とメモ。長居はしない。
――シガー・ナイト。いわゆる葉巻のテイスティングと交流会を兼ねた集まりだ。
会員制ラウンジにて。
レセプションと同日で、折り合いが悪い。
今回は見送ろう。断りの定型文をメモに起こして、メールの下書きに貼り付ける。
立ち上がって、椅子の背にかけていたジャケットを羽織り、鞄を持つ。
エレベーターで階下へ。いつもの癖でポストを覗くと、上品な装いの封筒がひとつ入っていた。
――試飲会の招待状か。
いま読んでいる暇はない。それを鞄に納めながら、エントランスを出た。
*
休憩時間。おれは座席でひとつ伸びをしてから、鞄から試飲会の招待状を取り出す。これはゴルフやレセプションとは違う。どちらかといえば、プライベート寄りのパーティー。
プライベートといっても、対人の場にちがいない。他者がいる限りは、社会の規律に触れる。大きいか小さいか、その違いだけだ……。
そう思って目線を上げた矢先に、早速〈規律違反〉が目に入った。
離席中のPCが、ロックもかけずに開きっぱなしだった。
デスクの主は佐伯くん(入社2年目)。要領がよく覚えも早いが、こういう基本をすぐ後回しにする。
これで何度目だ。出先でもやってないといいが。
苦笑しながら、いったん招待状を置いて立ち上がる。佐伯くんのモニター前に立ち、キーボードに指を置く。
Ctrl+Alt+↓。
画面がぐるりと天地を返す。
単純だがインパクトがある。
何となしに逆さまの画面を眺めていると、背後で安藤さんの笑う声がした。
「それ、佐伯くんは知らないと思いますよ」
「よかった。知ってたらイタズラにならないからな」
「あ。そうだ、鷹津係長。ついでにご相談が……」
しばらく安藤さんと話していると、佐伯くんが戻って来た。自分のPC前でぴたりと固まった。
「え? 逆さま……?」
「ロックしないとこうなるんだぞ」
そう言うと、安藤さんは笑いを堪えながらこちらを見た。おれが画面を戻してやると、佐伯くんは苦笑をもらした。
「すみません。次から——じゃなくて、今から気をつけます」
「そうしてくれ」
笑い話で済む程度の注意だ。
自席に戻りがてら、招待状を再び手に取る。ハサミで封筒の端を切り落として、中身を出す。
試飲会の日程は金曜夜。輸入商社の小さな会だ。
会場はホテル内のバーラウンジ。立ち飲みのスマートカジュアル。参加者は三十人ほど。
だが、もっと増えるだろう。招待状の末尾に「+1(パートナー)歓迎」と小さくある。
視線が、そこで止まる。
(連れて行くとすれば、思歩か……)
少し迷って、スマホを手に取る。メッセージアプリを開く。
一気に書いてから読み直し、「もしよければ」と「無理なら断ってください」を消す。
書き直す。
『来週の金曜、小さな試飲会に行きます。ご都合が合えば、一緒にどうですか。ドレスコードはスマートカジュアルです。』
送信ボタンを押す。
数分と経たないうちに、通知が鳴る。
『行けます。スマートカジュアル了解。何時にどこ集合がいいですか?』
『19:00開始。18:00に迎えに行きます。』
『ありがとうございます。』
数拍あって、追伸が届く。
『ネイビーのジャケットでも大丈夫そう?』
『大丈夫。完璧。』
『じゃあそれで行きます。楽しみです。』
画面を閉じる。
予定は決まった。段取りは整った。
あとは当日、役割をこなすだけ。
「……。普通に休みたいな」
ぽろっと口から出てしまった言葉に、一人で自嘲する。
普通に、ね。変な話だ。これはおれにとっての普通の休みの一コマであるはずだった。
おれには〈用途〉がある。そのように自分を設計してきた自覚がある。
休日には、おれが役割を果たせそうな場所に行く。なければ寝る。
確かに、そうだったのだが。
思歩と話すようになってから、その定義が少し、変わってしまったようだ。
何もかも投げ出して、彼女と一日中のんびり過ごせたらいいのに。そんなことを考えてしまう。
それだけを「休み」と呼びたくなっている自分が、確かにいる。




