37.ちゃんと見たくなって
パン屋を出たあとに公園へ立ち寄った。コーヒーの屋台が出ていて、アイスコーヒーを二つ買う。ベンチに座って、クリームパンを手に取った時仁さんが、その体勢のまま固まった。
怪訝に思って、思歩は訊いた。
「……どうしました?」
「どうやって分けようかなと」
彼は包み紙を皿みたいに広げ、クリームパンに視線を落としたまま、底を上にした。親指で筋を押さえてそっと裂くと、やわい生地がほぐれ、濃厚なカスタードの匂いが立つ。
「割りにくい。クリームが多すぎる」
「大丈夫、きれいじゃなくてもいいですよ」
左右にゆっくりとパンが割れていく。彼の親指に少しだけカスタードがつくのを見ていた。「まあ、こんなもんか」と笑って、ごく自然に大きいほうを差し出してくれる。それが、無性にうれしい。
朝ごはんを済ませたら、買い物ができそうな場所に移動する。
天井まで届く白い壁とガラスが広がる、大きな吹き抜けのある商業ビル。
手すり越しに下を見ると、服や雑貨を並べた店がいくつもある。
インテリアフロアで、小物の棚に足が止まる。陶器のふくろう、真鍮のサボテン、苔を閉じ込めたガラスドーム。飾るためだけに置くもの。
「いいですね。こういう小物を飾ってみたくて」
「あ、そうなんだ。そういうのは置かないと思ってた。インテリアに興味がある?」
「ええ、少し。あまり、詳しくはないんですが。飾り方もわからなくて。一つ、買ってみようかな」
「一つか。一つだけなら……」
時仁さんは少し考える素振りを見せた。部屋に招いたときのことを思い返しているのだろうか、と考えると少し恥ずかしい気もする。
ほどなく、彼は再び口を開いた。
「花瓶はどうかな。小さいやつ」
「花瓶ですか」
「そう。花はなくてもいいよ。花瓶って『花を活けるもの』でしょ。用途があるものは、空間に馴染ませやすいんだ」
なるほど、と思う。彼はインテリアに詳しいのだろうか。先週訪れた彼の部屋は、どこかのインテリア雑誌に並んでいても遜色ないほど統一されていた。漫然と家具を買い足してできた部屋ではありえない。
手のひらに載るサイズの、丸い花瓶を手に取る。
卵の殻みたいな、白に灰が混じったような色合い。口縁はわずかにゆがんだ楕円で、光を当てると、丸いおなかに照明の光が乗った。
「かわいいね。君の部屋に合いそうだ」
彼の言葉につられて、棚に置いたときの姿を想像する。玄関、ダイニングテーブルの上、テレビ横、寝室。値札の数字でわずかばかり冷静に戻ったが、存外気に入ってしまって、もう放したくなかった。
店を出ると、ガラス越しに、赤いレンガの駅舎がちらりと見えた。ちょうどランチの時間だったので、近くのカフェへ入る。パスタを一皿ずつ。デザートにレモンケーキが出た。
ランチを済ませたあと、近場の美術館に設けられたインフォメーションの前で立ち止まる。
「特別展をやってるみたいですね」
「入ってみようか」
館内は想像以上に人が多かった。展示は現代アート寄りで、抽象的な作品が多い。キャプションを覗き込んでみるが、あまりピンとこない。だが、人はわからなさをも楽しさに変えられるものだ。恋人と一緒にいるときはなおのこと。
白い部屋に、空の額縁が宙吊りにされたエリアでふと足を止める。
何の変哲もない額縁だが、枠を残してくり抜かれており、向こう側の景色がそのまま見える。
一歩ズレたり、ちょっとかがんでみたりしながら、面白い景色になりはしないかと探してしまう。ひとしきり鑑賞してから、背面側に回り込んでみる。
「思歩。ここにいたのか」
額をはさんで向こうに、彼がいた。宙づりのフレーム内にちょうど収まってしまっている。その状態で、絵画さながらの微笑みを浮かべて佇んでいた。
少し足早に、額縁の脇を回り込み、彼の傍に立つ。
「ごめんなさい、離れてしまって」
「いや。おれも見たいもの見てたから。ごめん、置いていっちゃった」
外に出ると、日はもう落ちかけていた。
しばらく無言で、肩を並べて歩く。
先に口を開いたのは、彼のほうだった。
「今日はすごく楽しかったよ。もうすでに寂しい」
「私も……」
そう言って、ためらうように言葉を繋ぐ。
「その。最初は、条件が合えば……って、自分に言い聞かせてたんです。でも、ちゃんと見たくなって」
「見たくなった? 何を?」
「あなたを。……あなたと、同じものを」
彼の表情に、驚きと安堵が同時に浮かぶ。目尻をそっと押さえるみたいな動きをして、すぐにその手を下ろし、笑ってみせた。
車道の縁で彼が手を上げると、一台のタクシーがウインカーを点滅させて寄ってくる。後部座席で二人並んで座り、行き先を彼が落ち着いた声で告げる。
車内には、聞き取れないくらい小さい音量でラジオが流れている。
会話はない。だが、沈黙が心地よい。
マンションの前で止まる。
ドアが閉まる瞬間、小さく手を振る。彼も手を振り返してくれる。タクシーが角を曲がり、テールランプが消えるまで、手を下ろせなかった。
マンションのエントランスに入る。ガラス扉に反射する自分の表情が、少し柔らかい。
部屋に灯りをつけて、袋をテーブルにそっと載せる。
花瓶を包む新聞紙を剥がしながら、指先が少し冷えているのに気づく。
彼が泣きながら「そばにいてくれませんか」と言った早朝の、あの震える声を思い出す。
今日、のびのびと、自然に好意を言葉にする彼の顔を見て、うっすらと自分の罪を知る。
――あんなにまっすぐ気持ちを伝えられる人から、その術を奪ってしまっていた。
(思えば、私たちはずっと、向かい合っていた)
交渉のテーブルをはさんで、尊重という名目で、距離を測りながら。
けれど向かい合い、見つめ合うとき、視線は交わっても視界は重ならない。
誰かのために行動するとき、人は相手の目を見ない。砂漠でたった一つのオレンジを分けるときのように。果皮の継ぎ目を探し、ためらわずに割るだけだ。
お伺いを立てる必要はない。ただ、相手の口へ届く形に切り分ける。
目配せはいらない。同じものを見ているから。
(彼と、同じものが見たい)
彼の目を見たい、見つめ合いたい、という欲求は抑えられない類のものなのだろう。だから、そのあとでもいい。彼の隣に立ち、彼が見ているものを一緒に見たいと思った。




