36.パン屋にて
木曜の夜、仕事を終えて帰宅したところでスマホが震えた。
画面には思歩の名前。
『今度の土曜、空いてますか?』
それだけのメッセージだったのに、心臓がやけに跳ねる。
一瞬、指が止まり――おれは電話をかけた。思歩はワンコールで取った。
『はい。……あの、』
「土曜は空いてるよ」
被せ気味に答えてしまう。
『よかった。それなら、パン屋さんに行きません? 行きたいお店があるんです』
パン屋。
休日の予定が一つできただけで、頭の中が急に明るくなる。
「ああ、いいね。車で行けるのかな?」
『電車のほうがいいかも』
「じゃあ、買って、どこかで食べよう。うちで焼き直してもいいけど」
『いいですね。冷凍するぶんも買って、ストックしておくといいですよ』
ささやかなこれからの話が、妙に胸に響いた。
これまでも、彼女と外に出かけることは何度もあったのに。同じ「出かける」でも、胸の奥に残る響きがまったく違っていた。恋人になって、初めて迎える休日だからだろうか。
*
土曜の朝、駅前のロータリーは人の往来でにぎわっていた。
約束の時間より少し早く着いたおれは、行き交う人の群れの中から彼女の姿を探す。
やがて、向こうから歩いてくる思歩を見つけた。
茶色のテーラードジャケットに、淡いクリーム色のトップス。裾まで落ちるワイドパンツが歩くたびに揺れる。足元は白いローファー。全体的にきちんとしているが、どこかやわらかさもある。
小走りに駆け寄ってくるわけでもなく、いつもの落ち着いた足取りで。それだけなのに、胸が不自然に跳ねる。
「お待たせしました」
「いや、こっちも今来たところ」
いかにもベタな言葉が勝手に口から飛び出す。
思歩が小さく笑って、「そうですか」と頷く。その歩幅に合わせて並んで歩き出した。
「髪切ったんだね。似合ってるよ」
「ありがとうございます」
思歩の笑顔に微笑みを返して、ふと思い至る。
そうか。思歩を褒めるのに、もう気を遣わなくてもいいのか。少なくとも、恋人に対する語彙は使える。
使える言葉は使うに限る。伝わらなくても。伝わるまでいくらでも。
「今日も、すごくきれいだ」
思歩は目を見開いた。ぱっと口元を覆い、視線を逸らす。
嫌がって……は、ないよな。でも少し不安になって、言葉を重ねてしまう。
「あ、ごめん。嫌だったかな」
思歩は小さく首を振った。指先で口元を隠したまま、息を整えるように間を置いてから、そっと言う。
「いえ。……嬉しいです」
うーん、かわいい――じゃなくて、よかった。言葉選びはミスってないようだ。
「ところで、ここは何がおすすめなの?」
「塩パンが有名らしいですよ」
店に入ると、香ばしい匂いと温かな空気に包まれる。
おれがさりげなくトレイとトングを持つと、思歩がちらりとおれと目を合わせて軽く頷く。ふっとパンに視線を落として、髪を耳にかける、その一瞬を見てしまう。耳に小さなイヤリングが揺れている。
うわ、かわいい。
声に出してないはずなのに、思歩がぱっと振り返ったので、思わず視線を上に飛ばしてしまう。
「こうやってあなたと一緒に買い物するのって、なんだか新鮮ですね」
「……そう?」
「だって。時仁さんが何を選ぶのか、全然知らなくて」
確かに。おれも、思歩がこういう場面で何を手に取るのか知らない。
どこにお金をかけて、何が好きで、普段どう過ごしているのか。
〈家計〉や〈財産〉や〈健康〉みたいな大きい話は契約でいくらでも詰められるのに、その手前の「日常」は、まだ何ひとつ共有していない。
……恋人なら当たり前に知っているはずの「ふだんの選択」を、互いにほとんど知らない。そのちぐはぐさに、今さら気づく。
「じゃあ、今日は買い物デートかな。君の好みを教えて?」
口に出した瞬間、言葉の甘さに自分でびっくりする。えっ。何言ってんだおれは……と軽く後悔したがもう遅い。
思歩は一拍おいて、視線を落とし、少しだけ恥ずかしそうにうなずいた。
「じゃあ、まずはパンですね。……今日食べる分と、明日の朝の分と、どっちも欲しい」
「いいね。明日は早い?」
「ええ、ちょっとだけ」
角食パンを手に取りながら、思歩が言う。
「食パンは厚切り派? 私は薄切り派なんです」
「どっちも好きだよ。選べるなら、厚切りにするかな」
おれが言うと、思歩は笑った。
「じゃあ、半分厚切り、半分薄切りでお願いしましょうか」
ささやかな交渉が、不思議と心地いい。
クリームパンの前で思歩が考え込む素振りを見せたので、ひょいとトレイに一つのせる。
「あ」
「半分こしよう。カロリーも半分だよ」
「理論破綻してません?」
「してないよ。半分にしたら半分になるだろ」
言って、二人で笑い合う。
何でもない朝に、パンを選んでいるだけなのに。
クリームパン一つに悩む彼女を、信じられないほど愛おしいと思っている。
……かわいい。
その言葉が脳内で過剰に反響して、顔が勝手に熱くなる。
だめだ。もうまともに思考ができない。言葉も、表情も、自分のものじゃないみたいだ。
抑えが利かない。いや、ギリギリ利いてはいるのか。
完敗だ。おれはもう、完全に彼女にやられている。




