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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第4章 情報・プライバシー・行動規範

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35.仕切り直し

 情けなさすぎる……。


 おれは天を仰ぎながら、自己嫌悪交じりの羞恥に耐えていた。


 昨日から朝にかけての記憶が、頭の片隅にへばりついて離れない。そのせいで、どうにも調子が狂う。

 一度思い出してしまえば、人目を(はばか)らずに顔を覆ってしまいそうになる。


 よりにもよって、泣き落としとは。


鷹津(たかつ)係長、有給の申請を……」


 部下の安藤さんが、そっと用紙を差し出す。


「ああ、はい」


 安藤さんが休むのは二日間。テーブルの上に転がっているシャチハタで判を押す。いまどき電子印もあるのに、これだけはなぜか未だに紙で運用されている。なんとなく腹立たしい。


 シャチハタのキャップを閉めながら、そういえば安藤さんの好きなバンドが5年ぶりにライブするんだよな、と思い出した。日程も、確かこの辺りだったはずだ。

 おれは紙を返しながら、いつものように軽く話しかけた。


「どうぞ。ライブ行くの? 久しぶりだもんね」


 つい口にしてしまった言葉に、安藤さんは一瞬固まる。

 おれも、固まる。


 彼は『私用』と書いたはずだ。察してはいるが、あえて踏み込まないのがマナーなのに。

 安藤さんの視線が、居心地悪そうに泳ぐ。


「あの、すみません……こんなことで有給使って」


「いや、いいんだ。そういうことじゃなくてね」


 ああ、もう誰かおれを殺してくれ。そう言いかけて、言葉が途切れる。どうしてもふざけた方向へ逃げたくなってしまう自分がいる。


「踏み込みすぎたね。すまない」


「いえ。大丈夫です……」


「なんかあったら、おれをすっ飛ばして部長か次長に直接言うんだよ」


 場に小さな笑いが漏れた。空気が少し軽くなる。


 安藤さんが下がる。

 シャチハタのキャップを指先で回しながら、静かに、だが深く息を吐く。


(何やってんだ、おれは……)




 *


 玄関を開けた瞬間、いつもの空気が、ほんの少しだけ違って感じられた。何が違うのか、うまく説明はできない。出るときには気づかなかった、気配のような雰囲気が残っている。


 洗面所で手を洗う。その間、脇に立てかけた歯ブラシが二本になっているのをじっと見てしまう。手を拭いてから、指でそっと位置を揃える。


 キッチンのカウンターには、ビニール袋が置いてあった。中身は栄養ドリンクと塩タブレットだった。昨夜、おれが寝ているときに思歩(しほ)が買ってきてくれたものなのだろう。


 袋の隣にはドラッグストアのレシート。ボールペンの字で『ちゃんと栄養補給してくださいね。冷蔵庫にヨーグルトもあります。』と走り書きされている。

 思わず、まじまじと読んでしまう。思歩の字をちゃんと見るのは、初めてかもしれない。


 冷蔵庫を開けると、炭酸水の並びに、昨日のスープの残り。それから、ヨーグルトが一つだけ混ざっている。


 それだけなのに、なぜだか嬉しさが込み上げてきた。笑いながら、ちょっとだけ目頭が熱くなる。


「……もう、だめだ」


 これは恋だ。

 そう認めるのは簡単でもあり、難しくもある。

 情けなくて、嬉しくて、どうしようもない。


 ソファに尻もちをつき、ばったりと横たわる。天井を見上げたら、また声にならない笑いが漏れた。


「だめだなあ……」


 しばらく天井を見ていると、腹の奥が静かに鳴った。

 普段なら無視する類のアラートだ。だが、冷蔵庫の中身を思い出して、ゆっくりと体を起こす。


 再び冷蔵庫を開ける。スープの余りを取り出し、具材を避けてスープだけを耐熱ボウルに移す。迷った末、鶏肉もひとかけらだけ加える。

 電子レンジに入れて600Wで一分半。ボウルをミトン越しに両手で包んで取り出す。ほのかにあたたかい。


 スプーンで一口ふくむ。昨夜より丸い味がした。鶏肉のかけらを噛んで飲み込む。スープは飲み干した。


 スマホを手に取って、メッセージの画面を開く。

 打っては消し、長文を打ってはまた消す。


『昨日はありがとう。助かりました。スープおいしいです』


 送信を押す前に、ほんの数秒だけ迷って、それから親指を落とした。

 既読を待つのはやめて、ソファへ戻る。


 ビニール袋から塩タブレットの袋を取り出して、開封する。ひとつ取り出した。カサつく包みを破り、口に放る。

 自分ひとりのためだけなら、きっと一生買わなかった。


 伝言が書かれたレシートを四つ折りにして、財布に差し込む。小さな紙切れが何かの証明書みたいに感じられて、ちょっとだけ笑う。


 キッチンの明かりを消して、リビングの照度をひとつ落とした。


 窓際まで歩く。ベランダに出ると、冷えた風が生き物みたいにまとわりついて、シャツの背を張らせた。夜はもうすっかり更けている。目下に(おびただ)しい(あかり)が広がっている。


 昨日見上げた滅びの光とは違う。生きている光だ。誰かがスイッチを入れた明かり。この星座の間を縫うように暗闇で眠る人々がいて──なんて膨大なんだろう。


 ポケットの中のミント缶を指でなぞりながら、深く息を吐く。その光景に、自分もまた数えられている。孤独は消えないのに、なぜか少し心が和らいだ。

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