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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第4章 情報・プライバシー・行動規範

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34.支えられる許可

 陽はまだ昇っていなかった。


 水中から引き上げられるように、意識が戻ってくる。重い頭を引きずり上げるように、ゆっくりと身を起こす。

 吐き気はない。空虚な疲労だけがある。


 ……。何があった?


 曖昧な記憶を辿り、欠けたピースを掻き集める。

 ワインで意識を飛ばした。少し吐いた、のだろう。

 そして、思歩に介抱された。

 久しぶりにベッドに横になった。そこで、思歩に抱きしめられながら、ずっと謝っ……。


 ……。

 え?

 なに? なんだ、この、記憶は……?


 じわじわと押し寄せるのは、恥ずかしさと、罪悪感と、後悔だった。


 ――おれは、何がしたかったんだろう。


 手っ取り早く酔って、気持ちを鈍らせたかった?

 いや、違う。そんな目先のことじゃない。結局のところ、望んでいたのは……。


 いや。望んでいたわけじゃない。

 結婚は〝するつもりだった〟だけだ。


 両親を安心させて、誰かと穏やかに暮らせればそれでよかった。面倒事は避けて、条件さえ合えば。とにかく、早く決めたかったはずなのに。


 思歩と話すたび、なぜか立ち止まってしまう。


 子ども、健康、死。

 そんなことまで真剣に考えるつもりは、なかった。


 だが彼女は、それを当たり前のことのように語る。

 おれの死さえ、自分に関わる事柄として受け止めようとしてくれる。


 そんな女性に、おれはもう――心を許してしまっている。人生の相手として。上辺だけのやり取りでは済ませたくないと、そう思ってしまっている。


 だが、それは許されるのか。彼女を縛りつけることになるのではないか。願いは、その矛先を相手に向けた瞬間に、独りよがりな約束へと変わるのだ。


「許されない……」


 きちんと声に出して、戒めを胸に落とす。


 気持ちは〈解約〉できない。境界がないから、きれいに切り分けることもできない。一度貼りついたものは、白紙には戻らない。


 書類上の関係ならば、それを破り捨てるだけで済むのだ。その余白を、彼女のために残しておかなければ。


 おれは黙らなければならない。その沈黙の奥で、どうしようもなく彼女に触れたがっている自分を、ぐっと押し籠めた。


 立ち上がって、ドアへ向かう。

 ノブに手をかけるよりも早く、ドアが勝手に開いた。


「……あ。起きましたか?」


 思歩だった。


 不意をつかれて、思わず立ち尽くしてしまったおれに、彼女は、どこかほっとしたような明るい笑顔を向けてくる。


「おはようございます」


「……おはよう」


 声が枯れている。まだいてくれたのか。ちゃんと寝られただろうか。おれはベッドにいたのに……。いろいろなことが脳裏を掠めて、言葉が出ない。

 思歩が、手に持っていたペットボトルの水を差し出した。


「お水、飲みますか?」


「……うん。ありがとう」


 水を受け取る手が、少し震える。促されるまま、再びベッドに腰を下ろした。

 一口飲む。沈黙のまま、数秒が過ぎた。

 先に口を開いたのは思歩だった。


「あの、ごめんなさい。鍵とカードキーをお借りしました。外で、いろいろ買い物に」


「大丈夫」


「あとで、シャワーを借りてもいいですか? 出勤前に入っておきたくて」


 出勤前。そうだ。今日は月曜だ。


「うん。……ごめん」


「まぁ、ちょっと焦りましたけど。怒ってはないですよ」


 思歩はにっこり笑った。なぜか、少し勝ち誇ったような顔だった。


()()()()()姿()ってこういうことを言うんですよ? やっと見せてくれましたね。……ちょっと、サービス過剰でしたけど」


 だらしない姿を見られた──おれが待ち合わせのときに言った言葉。


「……。愛想をつかされるかと」


 自分でも意図しない言葉だった。あの夜、思考が崩れ落ちる一歩手前で、残っていた最後の理性はそれを恐れていた。


 思歩は、わずかに眉をひそめたようにも見えたが、すぐに明るい声で返した。


「おかしなこといいますねえ。これくらいで解消したくなる契約なら、最初から持ちかけてないですよ」


 いつもの彼女と、何ら変わらなかった。

 だが、それにむしろ胸を締めつけられるようだった。

 頭のどこかがまだ空白のままで、言葉が追いつかない。


 ──不安というほど具体的じゃない。

 ──悲しみと呼べるほどの理由がない。


 思歩がこちらを見た。

 視線が一瞬交わると、思歩は何かを察したように立ち上がり、こちらへ近づいてきた。咄嗟に俯いてしまう。自嘲が漏れる。


 まいったな。いったいどんな顔をしていれば、あんなに心配されないで済むのか……。


 思歩は静かに、おれの目の前に膝をつく。


「思歩……。思歩さん」


 言うまいと決めていたはずなのに、口が勝手に動いた。

 許しを乞うように。限界を超えた心が、理性よりも先に声を押し出した。


 わかっている。おれは まずいことをしようとしている。これは()()()。ここで──おれの家で()()を告げるのは、卑怯だ。彼女は断れないかもしれない。

 それでも、言葉を止められなかった。


「おれの……私のそばにいていただけませんか。恋人として」


 思歩が小さく息を飲む。返事はなかった。


 ──ぱたり、と涙が落ちた。

 自分がいちばん驚いた。


 なんで泣いてるんだろう、と思った。

 泣こうとして泣いたわけじゃない。悲しいのかすら、わからない。


 ただ、こらえようとしても、もう止まらなかった。呼吸の奥がつかえて、喉が詰まりそうになる。


 こんなふうに泣くなんて、何年ぶりだろう。

 言葉にできないだけで、ずっとそこにあったものが、ついに決壊しただけなのかもしれない。


 思歩が小さく口を開いた。


「……時仁さん」


 彼女の声は、いつもよりやわらかかった。彼女の手が、おれの肩に置かれる。


 触れられている。

 だが、ほんとうに、おれから触れてもいいのか。

 支えてもらっても()()()()のか……。


 そっと、背中をさすられる。

 おれは、小さく「ありがとう」とだけ呟いて、彼女の肩に、額を預ける。


 彼女はそのまま、そっとおれを抱き寄せた。

 その瞬間、抑えていた呼吸が、一気にほどけた。


「はい。私でよければ……。よろしくお願いします」


 その言葉が胸の奥に落ちて、また涙があふれる。

 だが、おれはどこまでも正気だった。すぐに襲ってきたのは罪悪感だった。もう戻れない。彼女の自由に手をかけてしまった。


「ああ……ごめん。ごめんね。こんな。断れないよな……」


「いいえ。時仁さん。謝らないで」


 彼女は首を小さく振った。

 しばらく沈黙があった。思歩は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。


「謝るのは、わたしのほうなんです。ずっと、言わなきゃって思ってたのに。結局あなたに言わせてしまって。……つらい思いをさせてしまって、ごめんなさい」


 思歩の声はまっすぐ届く。おれを受け止めようとしてくれているのがわかる。情けなさに胸が詰まる一方で、わずかに安堵もにじむ。


 思歩は、迷いのない調子で続けた。


「配慮でも、同情でもありません。私は、自分で決めたんです。あなたを受け止めたい。これは、私の意思です」


 背中をさすり、髪を梳く彼女の手のひらが、やわらかい。


 泣いたらきっと、なにもかも壊れると思ってたのに。むしろ今、少しずつ、壊れずに済んでいる気がした。


 泣いてもいいと自分自身に許可できたのは、物心ついてからは初めてだった。

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