33.酒に溺れる
思歩はテーブルの上に目をやった。
ワインのボトルは空になっていて、二本目の栓がすでに抜かれていた。並んだおつまみは、ほとんど手つかずのままだ。
──こんなペースで、飲む人だったっけ?
ふと、そう思った。
次の瞬間、ばりん、と背後で破裂音が響いた。皿かグラスの割れるような、乾いた音。
次いで、鈍い衝撃音。重たいものがずり落ちるような音だった。
時仁さんの姿は、ここからは見えない。
「……あの、大丈夫ですか?」
返事はない。
だが、聞き間違いではない。胸騒ぎに駆られて立ち上がる。カウンターを回り込んだ瞬間、彼の体が視界に飛び込んできた。
「……時仁さん!」
彼は床に倒れていた。
うつ伏せの顔は髪で覆われて見えない。だらりと力を失った指先が、グラスの破片の上に投げ出されていた。
動かない。
慌てて駆け寄り、背中に手を当てる。
熱い。
「聞こえますか?」
反応は乏しい。目は固く閉じられている。呼吸は浅い。普段の穏やかな顔はゆがみ、額には冷や汗がにじんでいた。
かすれた声が、彼の唇の端から漏れた。
「……ごめん。ごめんなさい……」
意味の定まらない反復。誰に向けた謝罪なのかもわからない。ただ、何かに縋るように、何かを取り消すように、言葉だけが繰り返される。
――どうして、こんなになるまで。
彼は、自分を宥めるように飲んでいたのだ。
何かを隠すように。何かをごまかすように。
だから気が付かなかった。自分の限界に。
救急車を呼ぶかどうか、一瞬だけ迷った。
心拍は。意識は。呼びかけには答えられるか。
頭の中で、最低限のチェック項目をなぞる。反応はある。呼吸もある。彼の腕に巻かれているスマートウォッチを操作して心拍数を見る。脈は早いが、異常値ではない。
この状態なら、水分を摂らせて、経過を見るべきなのかもしれない。
……でも、自分の判断が正しいかどうか。確信は持てなかった。
数字上の異常はないのに、目の前の彼は、明らかに苦しんでいる。とても安心はできなかった。
私は彼の肩に手を置き、できるだけ優しく身体を起こそうとした。
倒れた拍子に少し吐いたようだ。服がワインで赤紫色に染まっている。額に添えると、じわりと熱を感じた。
着替えを探して、汚れた服を脱がせて、横に寝かせた。
こんなことは〈契約〉には書いてない。当たり前だ。契約は「最小限の決め事」でしかない。
その裏側には、文言にしきれない世話や迷いがいくらでも転がっている。やるべきことと、やりたいこと。それらが想像していたよりずっと多いことを、さまざまと思い知らされる。
床に膝をつき、彼の顔を覗きこむ。
〈契約〉が定めるのは、倒れたあとに誰が決めるか、どこまで延ばすか――そんな手続きのことだけだ。
けれど、こうして目の前の熱に触れるところまでは、どこにも書いていない。書けない領域だ。
そっと額に手を当てる。
ひとの熱というものは、こんなに重く、不確かなものだっただろうか。
何が怖いの。
何を取り消したいの。
額に手を当てながら、思わず声が漏れた。
「謝るのは私のほうです。ごめんなさい……」
彼に無理をさせてしまった。
〈婚前契約〉の真剣さに抗えず、心を置き去りにしてでも誠実に応えようとしてしまう人だと、知っていたのに。
段取りを急いでしまった。
友人でもなく、恋人でもない。婚約者ではなく、家族でもない。そんな位置で宙ぶらりんにしたまま、答えを先送りにして、契約だけを先に進めた。
不安の正体を聞かずに「子ども」「健康」「延命」の話を重ねた。
彼の気持ちに真正面から向き合おうとせず、制度の話に逃げてしまった。
「立てますか? ベッドに行きましょう」
彼は何も答えなかったが、思歩にしがみついたまま、ゆっくりと、体の動きを確かめるみたいに立ち上がる。
寝室も、生活感がまるでなかった。
きちんと整えられたベッドの上に、白い段ボール箱──バンカーズボックスが二つ置かれている。それらを降ろして、掛け布団をめくる。
ベッドメイクはまったく崩れていない。
人を招く予定は、なかったはずだ。
ボックスも、昨日今日置いたものではなさそうだ。
……ベッドが、使われていない。
少なくとも、彼は昨日、ベッドで寝ていない。
では、どこで寝たのだろう。
あのソファで? もしくは、床で?
どうして?
彼をゆっくりとベッドに横たえる。頭を枕につけても、彼は思歩の腕を弱々しく握ったまま、離さない。
身体を離すタイミングを失ってしまう。
悩みなど一つもないという顔をしていた普段の彼からは、およそ想像できない姿だった。
とても、置いていけそうにない。
顔を伏せたままの彼が、呻くようにつぶやく。
「ごめんなさい……」
彼の背に腕を回し、頭をそっと撫でる。
悩みがないなんて、あるはずがない。
彼をひとりの人間として見ようとしていれば、そんな思い込みには至らないはずだった。
だけど、彼はいつも人に囲まれているから。みんなから好かれる人だから。明るくて、穏やかで。
何より、恵まれているから。
だから、彼の中に苦悩など一つもないのだろう、と。心のどこかで、楽観視してはいなかったか。
わからない。彼の不安も、孤独も、恐怖も。
ただ一つわかるのは、契約や書類の条文では、彼の心までは救えないということだった。




