32.心を宥める
思歩が鍋からスープをよそってくれる。
おれはバゲットを皿に並べて、ほんの少し間を置いてから手を合わせた。
「いただきます」
匙ですくって、スープを口に運ぶ。鶏の脂と野菜の甘みが、身体に沁み込む。
味そのものよりも、まず先に広がったのは、安堵だった。
――これは〈行動〉だ。食事がちゃんと成立している。隣に彼女がいてくれるから。
死人にはできないことだ。
そう思った瞬間、心の中で苦笑いをする。
「……おいしい」
「よかった。味は強くないですか」
「ちょうどいいよ。生姜が効いてるのが好きだな」
やっぱり、彼女といるのは楽しい。
だが、楽しい時間はいずれ終わる。
どうして、こんなことを考えるんだろう。
星を見たからか。滅んでしまった光を見せつけられて、その余韻がまだ抜けきらないのかもしれない。
スープをもう一口すする。舌に広がる温かさが、時間を今に引き戻す。
片づけを終えると、考えるより先に身体が動いていた。
ワインセラーを開け、いつものようにボトルを何本か取り出す。グラスは二つ。
来客があってもなくても、夜になったら飲む。もうすっかり染みついてしまった習慣だ。
「今すぐ出せるのはワインかな。赤は飲める? スパークリングがいいかな。ハイボールも作れるけど」
「じゃあ、ハイボールを」
思歩が柔らかく笑った。
栓を抜こうとしたとき、胸の奥で何かが引っかかる。小さな棘のような違和感だった。
思歩が首を傾げる。
「どうしました?」
「……忘れてた。送るべきなんだよな。君を」
「あ、大丈夫ですよ」
思歩は手を軽く振る。
「タクシーで帰りますから。安心して飲んでください」
助け舟を出された形だった。主人としての段取りよりも、習慣が先に立った自分に、苦々しさが残る。
「……ありがとう。あとで手配するよ」
グラスの底に氷を落とし、ウイスキーを注ぐ。ソーダは氷に当たらないように滑り込ませて、グラスを満たしていく。ハイボールを作るおれの手元を眺めながら、思歩が訊いた。
「毎日飲んでるんですか?」
「うん。習慣になっちゃって。身体に悪いとは思ってるけど……。健康って、どこまで管理するべきなんだろうね」
思歩はハイボールに口をつけながら、小さく首を傾げた。
「体調で、何か気になることが?」
「いや、その……人間ドックって行く? ああいうの、ちょっと苦手で」
「行こうと思ってますよ。自分のためでもありますが、あなたに情報を渡しておきたくて」
「情報?」
「既往歴や、延命措置の希望を。急に倒れたとき、判断できないと困ると思うので。できれば、時仁さんの希望も、伺いたいですね」
「それは、……うん。そうしよう」
マドラーで底をすくいあげ、三周だけ回す。氷の澄んだ音を聞きながら、思わず目を伏せた。
彼女は、おれの最期まで見据えて契約を考えている。
「あと、子どもの話も、追々はするべきでしょうね」
「子どもか。そうだね」
「子どもに響くところはざっくり四つです。医療の判断を誰がするか。万一のとき誰が育てるか。学費・生活費はどこから出すか。あとは、相続の分け方ですね」
「そこまで考えてるんだね」
口にしてから、自分の言葉に呆れた。
当たり前だろ。ここで扱ってるのは好き嫌いとか気分じゃない。合意を積み上げる〈契約〉の話だ。酔ってるのか、おれは?
「ええ。ここは一緒に整理しておきたいですね」
思歩の返しは穏やかだったが、言葉は一切ぶれなかった。合理の刃が、おれの腹に静かにメスを突き立てるようだった。
「時仁さんは、風邪ひいたとき看病されたい派ですか?」
唐突な問いに、少し笑う。
「……そうだね。一人は寂しい」
「じゃあ、看病しますよ」
「それも契約書に書くの?」
「必要なら」
茶目っ気のある言い方だったが、話の根は変わらない。
おれはグラスの底を見つめながら、心の底に沈殿した何かを持て余していた。
何を、どうして、怖れているのか。
それさえ、まだはっきりとはわからない。
ボトルを傾けるが、赤は落ちてこない。それをテーブルの端に置く。そのまま二本目を手に取り、コルクにスクリューを突き刺す。
「そろそろ、お水を挟んだほうがいいんじゃないですか?」
「ああ、うん。確かに」
胃の奥のほうで、何かが消化しきれずに滞っている。
健康、子ども、延命、死。
それらが一本の線でつながっていく。
頭では理解している。契約とは、こういう話を言葉にして線を引く作業だ。
だが、心が追いついてこなかった。
自分の病や死の話題を、未来の現実として受け止める準備が、できていない。
紙に〈自分の最期〉を書き込むのは、その未来を確定させる行為のようで――怖い。
〈契約〉は、心を過熱させないための冷却装置でもある。
だが、思歩はその温度差をものともせず、おれの内部に入り込もうとする。
嫌ではない。
だが、それでは冷却装置の意味がないんじゃないか、と思う。
融けてしまいそうだ。
心地がいい。――恐ろしいほど。
「大丈夫ですか?」
「うん。水を取りにいくよ」
ゆっくりと立ち上がる。部屋の重心がずれたみたいだった。
足の裏はきちんと床を踏んでいるはずだったが、地面がどんどん遠ざかっていくようにも感じる。
(酔いが回り過ぎだな。でも、そこまで、飲んだつもりは……)
キッチンに歩き出す。歩幅は合っているつもりだったが、視界の端がじわじわと暗くなり、照明の光が滲んで重なっている。
ワインセラーが目に入って、何も考えずにかがむ。何か飲もうか、と思って、いや水を取りに来たんだったと思い至る。
腰を上げて、視線を戻した。
思歩はちょうど死角にいて、見えない。
どこにもいない。
誰もおれを見ていない。
成り損なう。聞き手のいない音のように、ただ消える。
視界が大きく揺れた。身体の中心がぐらりと傾く。
反射的に手をついた天板が、ぞっとするほど冷たい。
どこかで何かが割れたような音がした。肘を打って、何か割れ物を落としてしまったのだと直感したものの、ぶつかった感覚は一切感じなかった。
「ああ。やっちゃった」
だが言葉に反して、一抹の焦りもない。頭がぐらつく。
水道の蛇口に、手を――……。




