31.買い物
時仁さんの家は、駅から歩いて七分のところにあるタワーマンションだった。
ガラスの風除室をくぐる。
エントランスはシンプルだった。一対の花に、二脚のソファ。アロマディフューザーの香りが心地よい。宅配ボックスの列が静かに光っていた。
受付でコンシェルジュが会釈をし、こちらも会釈を返す。
エレベーターに乗ると、耳の奥がふっと詰まるような感覚があり、やがて四十二階で止まる。遠くで青く光る非常口のピクトグラムを目指すように進む。内廊下のカーペットは厚く、靴音はほとんどしなかった。
角部屋のドアの前で立ち止まる。電子錠が小さく鳴って、鍵が開く。
玄関灯が、一拍遅れて点いた。
「どうぞ」
「おじゃまします」
靴箱の上には金属のトレー。時仁さんはその上に、鍵とカードキーを載せた。傘立てにはビニール傘が二本入っていた。
リビングに足を踏み入れる。
色数は抑えめ。シックモダンという言葉がそのまま当てはまりそうな部屋だった。
低いソファに、薄いラグ。壁際のシェルフには、背表紙の半分が英語。オーディオは小ぶりなスピーカーにプリメインアンプが一台。配線は見えない。
アイランドキッチンはステンレスの天板。冷蔵庫の隣で、黒い箱が静かに唸っている。表示は12℃。ワインセラーだ。
彼が冷蔵庫を開け、そのまま考え込むように固まった。
「どうしようかな。缶のほうがいいか……」
思歩も後ろに立って、そっと覗きこむ。
庫内のようすを目にして、思わずぽろりとこぼした。
「からっぽですね」
とはいえ、まったく何もないわけではない。
ドアポケットに炭酸水が二本、無糖のアイスコーヒーとスポーツドリンクが一本ずつ。上段には使いかけのディジョンマスタードと有塩のエシレバター、贈り物らしい小さなカシスジャム。真ん中の段には、ワックスペーパーに包まれたハードチーズ。
野菜室には、米櫃と保存容器が並んでいる。いずれも空だ。
冷凍室には大量の氷と、ウイスキー用の丸い製氷器と、保冷剤。
〈食べる〉ためのものが見当たらない。飲むためのおつまみや道具、来客の名残りだけ。
生活感がまるで感じられない冷蔵庫――そんなものがあるのか、と思歩は少し驚いた。
食に関心が薄いにしても、これはさすがに異質だ。
「……時仁さんは、あまり料理をしないんですか?」
「まあ、しないかな。人を招くときくらい……」
曖昧な返事だった。今日ここに誰かを招く予定はなかったのだろう。そう思わせる間があった。
良質なものを必要最低限、が彼のスタンスらしいのは、部屋を見ればわかる。だが、食事は〈必要〉の範囲外みたいだった。
なぜだろう。
ただ一つだけわかるのは、彼は一人だと食事を後回しにしそうなタイプということだ。
「近くにスーパーってあります?」
「あるよ。歩いて十五分くらいかな」
「じゃあ、買いに行きませんか? キッチンをお借りしていいのなら、何か作りますよ」
彼はつかの間、思歩をじっと見つめた。
「作ってくれるの? ……嬉しいな」
彼の声は驚くほど素直だった。頬が少し熱を帯びる。視線を一瞬だけ外してから、戻す。
彼はわずかに口角を上げた。
「この雨だ。歩いて行くのもね。車を出そう」
「助かります」
「こちらこそ」
彼が小さく肩をすくめる。照れをごまかすみたいに、ステンレスの天板に置いてあった車の鍵を手に取る。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
車で数分。小さな駐車場に屋根はない。彼はすぐ傘を開いて助手席へ回り、濡れないよう頭上に差し掛けてから、静かにドアを開けてくれた。
「鶏にします? それとも豚?」
「鶏かな。さっぱりしたものがいい」
彼がかごを引き抜き、二人で野菜売り場に向かう。
ネギを一本、玉ねぎを二つ、生姜を一つ。かごに入れるたび、彼の腕がわずかに揺れる。
「パンも要りますね」
「バゲットはどうかな。切ってもらおう」
彼が選んだバゲットを受け取る。包み紙越しに、焼きたての香りがわずかに立ちのぼった。
財布を出そうとすると、彼はちょっと呆れたような顔で、すでにスマホをかざして決済していた。
思わず、口が先に動いた。
「もう。私が買うのに」
「ごはんを作ってくれる人に払わせるなんて、そんな情けないことさせないでくれる?」
「それをまず話し合いましょ、ってことなんですよ?」
「応じよう。ただ、支払い自体は片方にまとめておいたほうが楽だからね。もし君がおれを説得できたら、あとでもらうよ」
そう言って、彼はにやりと笑う。
「……説得できたらね」
この少し挑発的な表情に、最初こそ驚いたが、今ではこっちが彼の素に近いとわかる。それを気兼ねなく見せてくれるのが、素直に嬉しい。
マンションの駐車場に到着したとき、思歩は彼に話しかけた。
「ね、時仁さん。手を出してくれます?」
「うん?」
硬貨を数枚、彼の掌に載せる。
「……。これは?」
「私のお菓子の代金です。こればっかりは、個人的な買い物なので」
彼はしばらく黙って、その硬貨を見下ろしていた。受け取ったはいいものの、どう扱えばいいか戸惑っているようだった。
思歩は若干、茶化すように言う。
「もう、仕方ないですねえ。あとでちゃんと分けてあげますから。美味しいんですよ、これ。一緒に食べましょ?」
彼は思わずといった調子で吹き出す。
「そういうことじゃないよ」
思歩がキッチンに立って準備をする間、彼はアイランドキッチンのカウンターに座った。
時折、会話を挟みながら、先ほど返した小銭を指先で転がしている。小さく音を立ててみたり、光を反射させてみたり。遊んでいるというよりは、確かめるように。真剣でもあり、嬉しそうでもあった。
(……もしかして、彼はお金を返してもらったことがあまりないのか)
施しを与えて当然だ、と思われているゆえに。
目を固く瞑って、考えを打ち消す。この想像は、少し踏み込みすぎている気がした。
(よそう。邪推だ)
それ以上は考えないことにして、袋から野菜を出した。
結局、材料費のほうは彼に渡せなかった。




