30.プラネタリウム
思歩との約束は、日曜の十七時。
駅にあるカフェで待ち合せましょう、とだけ約束していた。
十六時。
相変わらず先に着いていたおれは、頬杖をついて窓ガラスを伝う雨を眺めていた。
幼少期はよく雨を眺めて過ごした。特に、車内から見る雨が好きだった。フロントガラスの上を水滴が走るさまを眺めるだけで何時間も過ごせたものだ。
唐突にそんなことを思い出すのは、昨日まで実家に戻っていたからだろうか。
スマートウォッチが震える。思歩からのメッセージが入っていた。
『もしかして、もう着いていますか?』
十六時半。待ち合わせ時間の三十分前だ。
『はい。でも待ち合わせには早いから、ゆっくり来てくださいね』
スマホでそう送る。既読はつかない。
何となくそのまま画面を眺めていると、すっと正面に人の座る気配がした。ホットコーヒーの載ったトレイがテーブルに置かれる。
特に何も考えず、頬杖をついたままで視線を上げる。
思歩がいた。
「やっぱり。着いてると思いました」
そう言って、彼女は微笑む。メッセージは既読にならないまま、本人が正面に座っている。
一瞬、反応が遅れた。
「……。ああ、お疲れ」
「お疲れさまです。……本当に、お疲れみたいですね?」
おれは軽く首を振りながら苦笑する。いつも通りに背筋を伸ばした。
「だらしないところを見られちゃったな」
「全然。もっと全力で気を抜いてから言ってくれます?」
彼女が窓の外へ視線を滑らせる。おれもつられてそちらを見る。雨粒がガラスを流れ、早くも点きはじめた街灯の光がにじんでいる。
思歩が、ふたたび口を開いた。
「ね。プラネタリウムはどうですか?」
星か。自分一人だけだったら選ばない場所だ。死んだ光を見るだけだからな、と一瞬のためらいも生まれたが、体験を共有するという目的ならば話は別だ。拒む理由はない。
「プラネタリウムか。いいね。ここからは直通で行けるはずだけど」
そう言いながら、おれはスマホで手早く検索をかける。
「当日に観られる演目があるね。これにしようか?」
思歩はうなずく。
どちらも〈契約書〉の話を出さなかった。
それをまったく不思議に思わなかったことに、ようやく気付く。
思い返せば、彼女との約束もただ「会いたい」と伝えただけで整った。最初に彼女との予定を立てたときは、どんな免罪符が要るかと、必死で考えていたのに。
理由もなく彼女の貴重な時間をもらえたという事実が、今さらのように胸を打つ。
半券を受け取り、横並びのシートに腰を下ろす。
天井がゆっくりと暗くなる。
ナレーションは星の寿命を語り、光が届くまでの時間を数える。
数百万光年。数十億年。
――すべてが、あまりにも遠すぎる。
言葉にならない虚ろさが、胸に降りてくる。
もう滅んでしまったものを、ただ見せつけられている、その空恐ろしさ。
目線だけを思わず隣にやる。思歩の顔はたしかに見えるのに、体温や息遣いは――生きている証のようなものは、すべて音と影にかき消されて、わからない。
応答のない世界。唯一の観測者。最も恐ろしい孤独の形。
背もたれに爪を立てる。
ばかなことを考えるな。集中しろ。
隣で思歩が小さく息を呑んだ気配がして、肘掛けのうえで手の甲がふれた。
反射的に、その手を握りこんでしまう。
温かくて、小さな手だった。
彼女の指は小さく跳ねたが、抵抗しなかった。おれも、動かない。
彼女が触れられる位置にいる。それだけで安堵の息が漏れる。
だが、このぬくもりが、自分の手にあってもいいのかどうか。頭の片隅で、問いが生まれる。
無関係に散った光の間に、線が引かれる。
人間の都合で橋を渡して、意味が作られる。
幾万年という時間が、ドームの内側をゆっくり流れていく。
過去の光を浴びている。
滅びに向かって燃えて、死んだはずの光を。
明かりが点くと現実が一気に戻ってきて、やっと深く息を吐いた。
「きれいでしたね」
「……うん」
言葉だけで肯く。
うそではない。きれいだと思った。
ただそれは、死に化粧を目前にしたときのような、防衛反応みたいな心の動きだった。何も変えられないと知りながら、体裁を整えるというささやかな抵抗の末に残った、副産物としての美しさ。
まだ少しだけ呆然としているおれに、思歩は静かに訊いた。
「どこかで、温かいものでも食べますか?」
「うちでよければ。たぶん、簡単なものなら……」
言いながら、改札を抜けて地上への階段を上がる。庇の縁から一歩出た瞬間、斜めの雨が袖に刺さった。そこで、はじめて気づく。
「傘がない。……売店か」
自分で言って、苦笑いが出た。
プラネタリウムの売店で、レジ横の壁に傘を立てかけた。パンフレットとレシートを受け取ったら満足してしまって、そのまま地下のコンコースへ降りたのだ。
外に出なかったから、思い出すきっかけがなかった。
あとで館内の総合案内に電話して売店に繋いでもらおう、と思ったものの、どうにも意識が上滑りしている。
「まあ、幸いここからは近いよ。おれは濡れても……」
「ダメです。風邪引きますよ」
思歩はそう言って、ためらわず傘の中におれを迎え入れた。街灯に照らされた二人分の影が、傘の下でひとつに重なった。雨粒が、骨の節を伝って落ちていく。
彼女の手から、そっと柄を受け取る。わずかに触れた指先が、少し冷えていた。
そのまま、彼女の肩側に傘を傾ける。
「濡れるよ」
「あなたのほうこそ」
「大丈夫。ごめんね。傘、どこかで買えたらよかったんだけど」
「これはこれで、悪くないですけどね」
肩の力が抜ける。彼女の、そういう言い方が好きだと思う。小さく笑い合って、言葉はそこで終わった。傘の内側で、雨音だけが大きくなっていった。




