24.パーティースモーク
どんな気分であれ、仕事はしなければならない。
夕方の横断会議のテーマは二つ。
海外与信の見直しと、四半期着地の共有。
経営企画の凪島係長は来期の投資計画をスライドで示した。
おれは海外営業部として、先週行った代理店の在庫・回収・見込みを改めて報告する。まずは、数字に換算できるところだけ。
回収遅延の影響については、経理が話を引き取る。
次回の〈宿題〉だけ決める。改定案は凪島に。契約条件の確認は法務に回す。実行役のおれはいったん免除。ボール待ちだ。
期限は二週間後。悠長だが、それより早く出されてもこちらが動けない。
しかし、期日が金曜日とは。現場感覚がない。
会議が解散しかけたとき、総務が言った。
「せっかく集まったし、近所でどうです? 新しい人もいるし」
凪島が「自腹でな。行かないやつはさっさと出ろ」と奴らしい気配りで釘を刺す。
総務が候補を二つ出し、経理の若手がその場で空席を押さえる。
会社から徒歩五分。揚げ物とハイボールがすぐ出るチェーンの半個室だ。
会社の外に出たら〈肩書き〉はなりをひそめるが、決して消えるわけじゃない。仕事から解放されたと言わんばかりに陽気な笑みをこぼす、その誰一人として立場を忘れてはいない。
誰が何を知っているのかなんて、みな承知している。
雑談の形式を借りて、情報のつつき合いが始まる。
おれが東アフリカの話をすれば、治安や物価や気温の質問が飛ぶ。経営企画は「為替予約いつまで持たせます?」と聞き、経理は「請求書まとめて来ないといいですねぇ」と冗談めかして探りを入れる。
そう、あくまでも冗談。
乾杯が三巡したあたりで、話題は仕事から滑っていく。
凪島は端で静かに飲んでいる。経理の先輩が会計あるあるで笑いを取り、総務が二次会の可否を聞く。席が温まる。
温まった席は、値踏みの目も呼ぶ。
「鷹津係長って絶対いい旦那さんになるよね」
「将来設計ちゃんとしそうだし」
経理部のテーブルからだ。
おれは言葉少なめに相槌を打つ。謙遜をいつでも手に取れる場所に置いておく。やりすぎは禁物。話を逸らす方向で会話を転がす。
住民税の封筒は6月に社内を回った。
そして、経理には数字の〈意味〉がわかる。それを真っ先に考える仕事だからだ。
「けっこう庶民派だよね」
「そりゃあモテるわ」
もう明け透けに言ってしまおうか。
経理担当者は、全員ではないにせよ社員の〈所得〉をだいたい把握している。住民税額が突出して高ければ、給与以外に多額の所得があることを意味するからだ。
こんなこと、普段なら気にならないのに。
経理が職業倫理を超えておれの所得情報を悪用するなんて、今だってこれっぽっちも疑っていない。
これはただの雑談だ。それも、お行儀のいいほうの雑談。それにもかかわらず。
おれは微笑んでいる。身体は勝手に〈正解〉を出す。
突き付けられる瓶ビールをすべてグラスで受け止める。手が勝手にグラスを合わせる。
酒が飲める身体で、本当に良かった。
アルコールは、すべてをどうでもいいことに変える。
経理の一人が「お疲れさまです、凪島係長」とおれの背中に投げかけた。振り返ると、凪島がグラス片手にふらりと現れていた。
「ちょっと抜けるぞ。来い、鷹津」そう言って凪島はグラスをテーブルに置いた。
「ええ? ……しょうがないな」
そう言いつつ、おれは周りに断りを入れて立ち上がった。視線が背中を撫でるのには気づかないふりをして、さっさと歩いていく凪島の背中を追う。
「なに?」
「タバコ」
「おれ吸わないよ」
「でも吸えるだろ」
それで逆らう理由を失う。突きつけられた煙草を断りきれず、一本だけ引き抜いた。
ビルの脇に設けられた灰皿の前で、凪島はゆったりと煙草を咥えた。
「〈社交場では喫む〉って言ってたからな」
「ここで吸ったらただの喫煙者なんだよ」
軽く返しつつ、凪島から借りたライターで煙草に火をつけた。
舌にニコチンの苦味が刺さる。
煙草を吸うと、どこかほっとする感覚がある。必然的に深呼吸をするからだろうか。たとえこの空気が猛毒だろうが構うものか、とさえ思える。
頭の中が、少しだけ白くなる。明るい。
「最近は居酒屋でも席で吸えない」と凪島。
「肩身が狭いね。止めたら?」
「断る」
どちらも次の言葉を繋がなかった。
喫煙所に沈黙はない。無言の時間は、煙と戯れる時間にあてがわれる。
吐いた煙が空気の中でほどける。
肺に沈む煙が、さっきの笑い声や、値踏みや、社交辞令を、包み込んでぼやかしていくようだった。
凪島がつぶやいた。
「お前、なんとなく狙われてたよな」
「今さらだな」
おれは煙を吐き出し終えてから、口を開いた。
「凪島だって言われてたろ。結婚指輪くらいつけとけよな。そしたらあんな絡まれ方しないよ」
「よく見てるな」
風が雑念を払っていくようだ。思考が澄んでいく。まわりの喧騒から遠ざかっただけで、ずいぶんと違って感じられる。
ガラスに映る自分の横顔はやさしく見える。酩酊してるから。目はどこか据わっているが、どこも見ていない。
凪島が指先で灰を落とす。
おれが視線を送ったのを見て、凪島はゆっくり口を開いた。
「知ってるか? 夫婦が〈対話〉できるのは、新婚のときだけだって」
おれの困惑ははっきりと顔に出た。おれは言葉を継げなかった。煙を吸い込み、それを吐き出し切って、ようやく言った。
「……。いきなり何だ?」
「結婚を考えてるんだろ」
「おれの結婚より先に、自分の残業時間を気にしたほうがいいんじゃないか? あんまり奥さんに心配かけるなよ」
「お前の〈心配〉は美点だが、配分がフラットすぎる。自分を使い潰す全体で組んでいるのもよくない。営業のプレイヤーとしては申し分ないが、長期案件を任せるには心許ない」
図星を突かれた気がして、どうにも落ち着かない。わざと軽口で返す。
「同期と1on1とはね。新鮮だ」
凪島の口端がわずかに上がった。くぐもった笑い声がもれる。
「くっついて時間が経ったら、〝今日の平穏〟を選ぶしかなくなる。そういうもんだ。……だが、それでいいんだよ。〈現場〉はそれで回る」
運用。出来上がってしまった仕組みを壊さないために応急処置を強いられ続ける仕事。その場を収める暫定対応は恒久化する。修正だけに焦点が当てられ、仕様変更はいつまでも見送られる。
そうだな。人間関係には、そういうところがある。一度できあがってしまったら、もう穏便には変えられない。
「まあ、言いたいことは、何となくわかるよ。うまく飲み込めはしないが」
「要はスタートダッシュを決めろってことだ。どんな仕事も要件定義次第だ。運用現場でそもそも論が役に立った試しがあるか?」
「着火剤にはなるかな。よく燃える」
おれの皮肉に、凪島もニヒルに笑う。
「だから先に叫んどけ。あとは平穏を死守しろ」
吸い殻を押しつぶす音。凪島は新しい火を点けない。ただ、指先で煙草の箱を軽く叩いた。




