23.浮気の定義
『大切な話があります』と伝え、思歩と会う約束を取り付けた。
伝える言葉は決めていた。
だが、いざ会う約束を取り付けると、心がささくれ立つ。
待ち合わせは、駅ビルの二階にあるチェーンのカフェにした。平日の午後だからか、ノートPCを広げる客が目立つ。腰を落ち着けるには十分。テーブルが近すぎない。重い話を切り出すには、こういう程よいざわめきがある空間のほうがいい。
「ひとつ、伝えなければいけないことがある」
おれは、コーヒーのカップをテーブルに戻した。
「祖母から、お見合いを勧められた。祖父との付き合いがあった家でね。……それで、一度、会うことになってしまった」
一瞬だけ目が伏せられた。だがすぐに、まっすぐな視線で射抜かれる。
「はい。了解です」
拍子抜けするほどの冷静さに、却って心を締めつけられる。
「もっと、怒られるかと思った。……これは、浮気も同然だ」
それを聞いた思歩は目を瞬かせる。そして、どこか気が抜けたように、困ったように笑った。
「浮気、ですかね。それだと、このみさんとカフェにいらしたときも怒らないといけなかったのでは、と思いますよ」
なぜ九坂さん? と一瞬混乱したが、そういえば彼女はもう成人しているわけで、世間的にみたらそうなってしまうのかもしれない、とおれはようやく思い至った。
自己嫌悪の痛みを無視して、おれは口を開いた。
「ごめん。あれも迂闊だった。……でも、今回は結婚前提の候補として会うんだ。重みが全然違う」
「まあ、そうですね……。ただ、法律上の不貞行為は、婚姻関係にある人が、配偶者以外と肉体関係を持った場合に限られていまして」
不貞行為を定義するために結婚する。
結婚することで、離婚できるようになる。
その因果がふと強烈に脳を揺さぶった。
「今の私たちの関係に、法的な効力はないので……」
「だからって何をやってもいいわけじゃないだろ」
思わず声が荒くなってしまう。頬に熱がこもるのを感じて、咄嗟に片手で顔を覆う。一拍、深く息をついた。
「……ごめん。裏切るのはおれのほうなのに。つまり、その。君は怒っていいんだ」
――怒ってほしいんだ。そう言いかけた言葉はすんでのところで呑み込んだ。
おれはそんなことを思っていたのか、と愕然とする。
こんなことは今までなかったのに。感情のままに口を開くなんて。
おれは少し、疲れているのかもしれない。
思歩はしばらく黙っていた。視線が一瞬だけ揺れたような気がした。
やがて、静かな声で返す。
「大事なのは、あなたが何を選択するかです」
その言い方は、どこまでも理にかなっていた。
まだ恋人ですらない。
恋人だ、婚約者だと言えたところで、関係を縛るのは倫理しかない。
法的には、不貞という概念は適用されない。
不貞行為は結婚していないと成立しない。
彼女の言い分は完璧に正しい。
「君は……」
言いかけて──彼女の表情がどこか泣きそうに見えて、おれは言葉を飲み込んだ。
違う。彼女に伝えるべき言葉は、もっと別にある。
「この話は、断るつもりだ。絶対に。横槍を許すつもりはない」
思歩は、目元をやわらげて笑った。
その反応にほんの少し緊張がほどける。同時に、こんなときでさえ反射的に〈正解〉を狙ってしまった自分が心底嫌になった。
思歩はいたずらっぽい表情をして、指を一本立てた。
「私がどうしてあなたを選んだか、覚えてます? 正解できなかったら、ここ奢ってもらいますからね」
「……〝必要な時でもウソがつけないから〟?」
「ふむ。まあ、及第点ですね」
おれはつられて笑う。
祖母と対峙した時間がよみがえり、胸が少し痛んだ。もしあのとき嘘をつけたなら――思歩を〈恋人〉と言ってしまえば。
そう思うが、結局は同じだ。段取りはもう済んでいる。あとは部品を組み込むだけ。
思歩は明るい調子で続ける。
「でも、こうも言いましたよ。〝自分が傷ついてでも倫理を守ろうとするから〟と」
思歩はグラスを両手で包み込んで、微笑んだ。
「時仁さん。あなたには、〈家の意向〉という情状酌量の余地があるんですよ。それなのに、自ら咎を背負おうとしている。その気遣いがわからないとでも?」
「それは、違う……」
本当に、違う。これは気遣いではない。甘えだ。自分の手落ちを責められていたほうが、楽でいられるからだ。
だが、彼女はおれに安い安堵を与えはしない。わかっている。それはおれのためにならない。
それでも……と縋りそうになるのはおれの弱さだ。
「あなたにこの話を持ちかけて本当に良かった。結果がどうなっても、この気持ちは変わりませんよ」
たとえ家の意向で仕組まれたものだとしても、思歩から見れば、そんな事情など知ったことではない。おれの行動は、彼女の立場から見れば〈契約相手からの裏切り〉に他ならないはずだった。
それなのに、真っ先に相手のことを思いやれる。常に良き選択肢を選びつづけようとする、覚悟にも似た彼女の理性を、おれは深く尊敬している。
――だが、胸のざわつきは収まらない。
「私は、あなたの選択を尊重します」
なぜだろう。
「わかった。状況は都度、報告するよ。……すまない」
「謝らないで。そうしていただけると助かります」
「お見合いは一週間後の土曜だ。そのあとに、また会いたい」
「では、日曜日の夕方はどうでしょう? また十七時にしましょうか」
「了解。開けておく」
おれは手帳を取り出して、マンスリーに『十七時』と書く。ペンを握る指先に、なぜか力がこもる。
……おれは、何に対して苛立っているのだろう。
彼女が冷静すぎることにか。
それとも、自分の弱さに嫌気が差しているのか。




