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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第3章 財産・負債・相続

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22.避けられない期待

 日曜の昼下がり、母から電話があった。

 受話口からは、どこかようすを伺うような声が流れ込んでくる。


『お見合い話が来ているの』


「お見合い?」


 オウム返しで問う。スマホを握る指に、力がこもる。


『この前の昼餐(ちゅうさん)会のあと、八重(やえ)さんから話があったのよ。断ってもいいけれど』


 昼餐会。

 江戸小紋に(はぎ)の銀細工が一瞬、頭に浮かぶ。

 くそ。やっぱり、(かわ)しきれていなかった。


 しかし、『断ってもいい』とは。一体どういうことだ?


 祖父母の付き合いから出た縁談だ。結婚は個人の自由なのだから、で済む話ではない。

 『せっかくのご縁を軽んじた』と受け止められることがあってはならないし、祖母の顔を潰すのも避けたい。


「八重夫人からのご好意なんでしょ。断ってもいいわけなくない?」


 軽いニュアンスにしたつもりだったが、少し刺々(とげとげ)しい言葉選びだったかもしれない。

 声色には出ていないはずだが、確信はない。母もまた、聞かないふりをする礼儀についてよく知っているから。


『本当はね、あなたが決めたほうがいいのよ。でも、お祖母(ばあ)さまが乗り気でね。なにせ、お祖父(じい)さまが外交官でいらした頃からのご縁でしょう』


 母の言葉の裏には、はっきりとした意図があった。


 鷹津家の子息として、()()()()()()()()を築ける相手を、という祖母の意向。

 ごく()()で、()()()()な、だからこそ決して無碍にはできない視線。

 家という生き物の習性。


『確かに、お家柄は申し分ありませんけどねえ……』


 母も乗り気ではなさそうで、それが意外だった。

 母はおれを結婚させたがっている。冠婚の話題になるたび、目尻に小さな期待が浮かぶようになって久しい。


 こんな良縁ならたいそう喜ぶに違いないと思っていたのだが。


「母さんは嬉しくないのか? おれに散々『結婚しろ』って言ってたじゃないか」


『でもあなた、(かつ)良木(らぎ)のお嬢さんを憎からず思っているわけではないのでしょう?』


 おれは思わず笑ってしまった。何がおかしいのか自分でもわからなかった。頭はひどく冷めているのに、胸から愉快さだけがこみあげてきて、何かに促されるように笑っていた。


「それ、本気で言ってる? おれを結婚相談所に叩き込んだ人のセリフとは思えないな」


『まあ。そうなんだけどねぇ……』


 ときどき、母がおれに何を求めているのか、わからなくなる。

 〈家〉の望みか。〈母〉の望みか。あるいは個人の望みか。


『ともあれ、一度お祖母さまと話してみてくださる? 私からも話を通しておきますから』


「了解。わかったよ」


 おれは努めて明るい声色で了承した。受話口の向こうで、母が胸を撫で下ろすように息を吐く声が聞こえたような気がした。


 電話が切れたあと、自分で電源ボタンを押して画面を落とす。訳もなく、真っ暗になったスマホの画面を開いたまま固まってしまう。

 黒い鏡に、光を失ったおれの顔が貼り付いていた。




 *


 応接室には煎茶の香りがゆるく漂っていた。

 金唐革(きんからかわ)の椅子は座り心地がよくない。背もたれの紋様が肩甲骨を押し返してくるようだ。背筋矯正を是とするような息苦しさがあった。


「答えは急ぎませんよ。ただ……」


 湯呑を持つ祖母の仕草に揺るぎはない。

 左手薬指には翡翠の指輪が嵌まっている。


 婚約指輪だろうか、と初めて思い至った。

 今まで考えもしなかったことで、どこか新鮮な気持ちで祖母の指元を見ていた。


「心に決めている方がいらっしゃるのか、それだけ教えてくださいな」


 言われた瞬間、心の奥に思い切り杭を打たれたような衝撃があった。


 決めている? 決めている、だろうか。

 言葉が喉の途中で引っかかる。


 〈恋人〉と呼ぶ許可は得ていない。

 契約交渉中であるとも言いづらい。

 結婚を前提に話をしているからと言って、一足跳びに〈婚約者〉と呼んでもいいものだろうか。


 書類が先に交わされ、関係性があとから追いかけるようなあの不思議な距離感に、なんとか説明をつけようとしてきた。


 だが、少しばかり慎重すぎたかもしれない、と今になって思う。恋人よりも〈契約相手〉が欲しいと言った彼女の心境を、ずっと推し量ろうとして。


 ……それでこの(ざま)なら世話ないな。


「気になる方は、います」


 結局、喉に残ったものを吐き出すように、そう答えるしかなかった。


 嘘をついたほうが良かった。〈恋人〉がいると言ってしまえば場はシンプルに収まっただろう。だが、それは事実ではない。いまの彼女との距離に、嘘を混ぜたくなかった。


 祖母はとくに表情を変えず、湯呑に口をつけた。


「……将来を約束していらっしゃるのかしら」


「はい」


 おれの迷いない肯定に、祖母は少しだけ眉を上げたように見えた。〈気になる方〉という程度の相手に対して将来を約束している、という言葉の意味を測りかねたのかもしれない。

 廊下を勝手に走る孫たちの足音を咎めるときみたいな顔だった。


「思い切りのいいこと」


 祖母の声は落ち着いていた。冷たくはないが、温かくもない。


「このご縁を前向きに検討する気はない、ということですね」


「はい。この話はお断りします」


()()()()なおのこと、気楽に行ってらっしゃいな。――縁談というのは、断るにも礼儀が要るものですからね」


 おれは返事をしなかった。軽く目を閉じた。

 呼吸を整え、背もたれの押し返しに身を預け直す。


 ──会うことは避けられない。だが、せめて。

 この話は絶対に断る。


 その前に、この話を伝えなければならない相手がいる。

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