22.避けられない期待
日曜の昼下がり、母から電話があった。
受話口からは、どこかようすを伺うような声が流れ込んでくる。
『お見合い話が来ているの』
「お見合い?」
オウム返しで問う。スマホを握る指に、力がこもる。
『この前の昼餐会のあと、八重さんから話があったのよ。断ってもいいけれど』
昼餐会。
江戸小紋に萩の銀細工が一瞬、頭に浮かぶ。
くそ。やっぱり、躱しきれていなかった。
しかし、『断ってもいい』とは。一体どういうことだ?
祖父母の付き合いから出た縁談だ。結婚は個人の自由なのだから、で済む話ではない。
『せっかくのご縁を軽んじた』と受け止められることがあってはならないし、祖母の顔を潰すのも避けたい。
「八重夫人からのご好意なんでしょ。断ってもいいわけなくない?」
軽いニュアンスにしたつもりだったが、少し刺々しい言葉選びだったかもしれない。
声色には出ていないはずだが、確信はない。母もまた、聞かないふりをする礼儀についてよく知っているから。
『本当はね、あなたが決めたほうがいいのよ。でも、お祖母さまが乗り気でね。なにせ、お祖父さまが外交官でいらした頃からのご縁でしょう』
母の言葉の裏には、はっきりとした意図があった。
鷹津家の子息として、きちんとした家庭を築ける相手を、という祖母の意向。
ごく自然で、まっとうな、だからこそ決して無碍にはできない視線。
家という生き物の習性。
『確かに、お家柄は申し分ありませんけどねえ……』
母も乗り気ではなさそうで、それが意外だった。
母はおれを結婚させたがっている。冠婚の話題になるたび、目尻に小さな期待が浮かぶようになって久しい。
こんな良縁ならたいそう喜ぶに違いないと思っていたのだが。
「母さんは嬉しくないのか? おれに散々『結婚しろ』って言ってたじゃないか」
『でもあなた、桂良木のお嬢さんを憎からず思っているわけではないのでしょう?』
おれは思わず笑ってしまった。何がおかしいのか自分でもわからなかった。頭はひどく冷めているのに、胸から愉快さだけがこみあげてきて、何かに促されるように笑っていた。
「それ、本気で言ってる? おれを結婚相談所に叩き込んだ人のセリフとは思えないな」
『まあ。そうなんだけどねぇ……』
ときどき、母がおれに何を求めているのか、わからなくなる。
〈家〉の望みか。〈母〉の望みか。あるいは個人の望みか。
『ともあれ、一度お祖母さまと話してみてくださる? 私からも話を通しておきますから』
「了解。わかったよ」
おれは努めて明るい声色で了承した。受話口の向こうで、母が胸を撫で下ろすように息を吐く声が聞こえたような気がした。
電話が切れたあと、自分で電源ボタンを押して画面を落とす。訳もなく、真っ暗になったスマホの画面を開いたまま固まってしまう。
黒い鏡に、光を失ったおれの顔が貼り付いていた。
*
応接室には煎茶の香りがゆるく漂っていた。
金唐革の椅子は座り心地がよくない。背もたれの紋様が肩甲骨を押し返してくるようだ。背筋矯正を是とするような息苦しさがあった。
「答えは急ぎませんよ。ただ……」
湯呑を持つ祖母の仕草に揺るぎはない。
左手薬指には翡翠の指輪が嵌まっている。
婚約指輪だろうか、と初めて思い至った。
今まで考えもしなかったことで、どこか新鮮な気持ちで祖母の指元を見ていた。
「心に決めている方がいらっしゃるのか、それだけ教えてくださいな」
言われた瞬間、心の奥に思い切り杭を打たれたような衝撃があった。
決めている? 決めている、だろうか。
言葉が喉の途中で引っかかる。
〈恋人〉と呼ぶ許可は得ていない。
契約交渉中であるとも言いづらい。
結婚を前提に話をしているからと言って、一足跳びに〈婚約者〉と呼んでもいいものだろうか。
書類が先に交わされ、関係性があとから追いかけるようなあの不思議な距離感に、なんとか説明をつけようとしてきた。
だが、少しばかり慎重すぎたかもしれない、と今になって思う。恋人よりも〈契約相手〉が欲しいと言った彼女の心境を、ずっと推し量ろうとして。
……それでこの様なら世話ないな。
「気になる方は、います」
結局、喉に残ったものを吐き出すように、そう答えるしかなかった。
嘘をついたほうが良かった。〈恋人〉がいると言ってしまえば場はシンプルに収まっただろう。だが、それは事実ではない。いまの彼女との距離に、嘘を混ぜたくなかった。
祖母はとくに表情を変えず、湯呑に口をつけた。
「……将来を約束していらっしゃるのかしら」
「はい」
おれの迷いない肯定に、祖母は少しだけ眉を上げたように見えた。〈気になる方〉という程度の相手に対して将来を約束している、という言葉の意味を測りかねたのかもしれない。
廊下を勝手に走る孫たちの足音を咎めるときみたいな顔だった。
「思い切りのいいこと」
祖母の声は落ち着いていた。冷たくはないが、温かくもない。
「このご縁を前向きに検討する気はない、ということですね」
「はい。この話はお断りします」
「でしたらなおのこと、気楽に行ってらっしゃいな。――縁談というのは、断るにも礼儀が要るものですからね」
おれは返事をしなかった。軽く目を閉じた。
呼吸を整え、背もたれの押し返しに身を預け直す。
──会うことは避けられない。だが、せめて。
この話は絶対に断る。
その前に、この話を伝えなければならない相手がいる。




