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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第3章 財産・負債・相続

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20.果実の成る木

「整理しますね。結婚する前から一方が持ってたもの。相続・贈与を受けたもの、そして単独名義。これらは原則、その人だけのものです。〈特有財産〉ですね」


 手元のスタイラスペンが滑り、〈特有財産〉の項目が囲まれる。思歩(しほ)が言葉を続ける。


「特有財産の所有・管理・収益・処分は各当事者が単独で行います。……たとえば、〈婚姻前〉から持ってる資産の運用は個人で行うってことですね」


「運用ね。君も有価証券を持ってるの?」


「はい。といっても、投資信託を一つだけ。全世界株(オルカン)ですけど」


 つまり、世界中の主要な株式市場にまとめて分散投資するタイプの投資信託を買っているということだ。


「堅実だね」


「堅実?」


 思歩はちょっと面白そうに、指先でタブレットをトントンと叩く。


時仁(ときひと)さん、ずいぶんリスク許容度が高いですね? 含み損は出ますよ」


「数字が赤いだけだよ。手元資金は減らない」


 これは少し言葉が強いかな。

 だが、含み損はその証券を手放さないと確定しない。担保としての余力は削れるし、気分は悪いが、()()の出費額は変わらない。


 思歩は苦笑して言った。


「まあ、運用の考え方が固まってるのはわかりました」


「配当の扱いはどうなるかな。結婚後に入ってくるものは?」


「もちろん特有財産ですよ。配当は、法律用語でいえば〈果実〉です。木に成る果物は、木の持ち主のものですよね。あなたの〈木〉に実ったものも、分ける必要はありませんよ」


 おれには黙って育ててきた〈木〉がある。その話をするならば今だろう。


「……前に言った〈おこづかい〉の話、覚えてる?」


「ええ。時仁さんは〝もらったことがない〟って言ってましたね」


「うん。もらわなかった。……現金では」


 喉が少し乾く。これから話すのは、自分が受けた金銭教育の共有にすぎない。

 だが、これを他人(ひと)に話すのは、合鍵を差し出すのに似ている。


「高校に上がったとき、上場株を名義ごと譲ってもらった。配当は年2回。定期とか、文具とか、必要なものはそこから買っていて、運用は一任されていた。……我が家の方針だった」


 こんな話をすると、たいていは眉の角度が変わる。

 露骨な称賛か、揶揄めいた感心か、下世話な詮索か。

 いずれにせよ〈物語〉が仕立てられる。


 だが、彼女は違った。思歩の反応は実にのんびりしたものだった。


「へえ。それだと、時仁さんは頻繁に銘柄を手放したりする、ってことですかね?」


「……うん、まあ」


 こちらの生い立ちが、()()()()()として通る。

 札束のにおいがする逸話ではなく。


 事実――とりわけ金銭に関する事柄を、善悪や努力や運という勘定科目に振り分けない。

 その乾いた受け止め方に、見栄や羨望や嫉妬の影が一切混ざらないことに、ひどく救われる。

 それがどれほど稀少な安心かは、身に沁みてわかっていた。


「銘柄の入れ替えはそうそうやらないけど、比率はよく変えるかな」


「それもお話したかったんです。特有財産はどう扱っていただいてもいいんですが、大きめの〝処分〟をする場合は共有していただきたくて。トラブルになるかもしれませんから」


 妥当な懸念だ。


「いくらがいいかな。たとえば100万円だと、大型の株売却も独断で通っちゃうけど」


「では、いったん50万円くらいにしましょうか。趣味の道具とか、貴金属の処分とか、それこそポートフォリオの見直しでいちいち引っ掛かるようなら、また話し合いましょう」


「了解」


 思歩は次の行に指を滑らせる。


「それから、あなたの特有財産を担保に私が勝手に借り入れたり、逆にあなたが私の名義で何らかの契約を結ぶことを禁止する、という条項も入れます」


「了解。重要な項目だね」


 他人の財産を勝手に〈担保〉にしてはならない――他人のものに手をつけてはいけないなんて常識だろう、と鼻で笑いたくなるだろうか。


 だが、これは当たり前()()()()。夫婦であればなおのこと。

 言葉にすることで、やっと〈当たり前〉になる。


 果実は木に()る。

 木はおれのものだが、誰かのために切り倒すこともできる。


 『幸福な王子』を気取るつもりはない。ただ、誰かのために手放してもいいと思える。そう感じられる相手がいる。それが、無性に嬉しい。


「所得区分が増えると税務がややこしくてね。確定申告の判断は、するかどうかも含めて丸投げしてる。必要なら、税理士を交えて話す場をつくるよ」


「助かります。ただそれは()()()でもいいですよ」


 結婚後。何度も聞いたはずの言葉なのに、なぜか不意打ちのような衝撃があった。心臓は落ち着いていたが、手は無意識に重みを探していた。そこにまだないはずの、指輪の重みを。

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