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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第3章 財産・負債・相続

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19.お邪魔します

 駅の改札を出ると、空気がやけに澄んで感じられた。


 午後五時を回ったばかり。束の間の秋だ。まだ陽は落ちていないが、空の色にはすでに冷たさが混じってきている。夏の間はあんなに蒸し暑かったのに。


 ……早く着きすぎた。


 思歩(しほ)の家の最寄り駅。待ち合わせの時間まで、まだ三十分もある。

 スマホを見る。通知はない。


 昨日、『17:30で大丈夫ですか?』とメッセージが来て、『大丈夫です』と返しただけだった。


 缶コーヒーを買ってみて、改札前のベンチに座る。

 プルタブに親指をかけ、そのまま止める。どうも開ける気になれない。


 バスがロータリーの縁をなぞって走り去る。

 子どもが二人、鳩を追いかけている。鳩はこなれていた。斜めに数歩ずれながら、それをよける。


「……」


 期待してしまう。心のどこかで、今日を何かの節目だと思ってしまっている自分がいる。

 だが、浮かれてはいけない。期待してはいけない。


 ポケットからスマホを取り出す。思歩の連絡先を開いて、一度閉じる。

 もう一度開く。『駅にいます』と打って、送信ボタンを見つめる。

 押さない。


「もう着いてたんですか?」


 振り返ると、思歩が立っていた。ベージュのコートを羽織って、髪は下ろしている。いつもの姿とは少し違って見えた。


「早く着き過ぎただけだよ」


「いつもそうですねぇ」


「うん。早く会いたいからね」


 頬に、暑さとは別の色がふっと差したような気がした。おれの願望が見せた幻かもしれなかった。


「……じゃあ、行きましょうか」


 おれは頷いて、まだ冷たいコーヒー缶を上着のポケットにしまった。歩き出す足が思いのほか速くなるが、歩調を合わせることは忘れない。


 雲の縁が薄紫になりはじめて、街灯が一つ、また一つと点いていく。




 *


 並んで歩く道のりは、駅から部屋まで十数分。

 その間、ほとんど会話はなかった。


 無言が気まずいわけじゃない。話したいことが見つからないわけでもない。言葉を選んでいるうちに、すべてが喉元で止まってしまう。


 築年の浅い打ちっぱなしの箱。オートロック。集合ポストの差し込み口にはピザのチラシと水道工事のビラが半身を出していた。

 思歩が玄関で鍵を差し込み、ドアを開ける。


「どうぞ。少し、狭いですが」


「お邪魔します」


 玄関は小さく、清潔だった。靴箱の上にはガラスの小鉢と透明なフレームの写真立て。海の写真だった。写っているのは友人か親戚か。どちらにせよ、ここにいない人。


 冷蔵庫の扉には電気料金と水道料金の明細を留めるマグネット。


 部屋の平米数、駅までの距離、周辺環境。家具・家電のラインナップ。

 それだけで所得の範囲(レンジ)が浮かぶが、今日は意図的にその思考を止める。


 促されてソファの端に座ると、思歩は隣に、少しだけ間を空けて腰を下ろした。


「……隣に座るの?」


 できるだけ()()な音色を選んだつもりだったが、柔らかすぎたかもしれない。手は太ももの上に置く。触れないための所作。


「そのほうがタブレットが見やすいでしょう?」


 そういう彼女の声はわずかに笑っている。

 タブレットのガラスに、二人の輪郭が薄く重なって映る。


 彼女の肩の髪がさらりと流れて、おれのシャツの肘あたりで止まる。


 ほんの数十センチの隙間。今日はその距離がやけに意識された。


「今日話すのは、特有財産かな」


「ええ。……不躾(ぶしつけ)な質問ですみませんが、どのような資産をお持ちですか?」


 声には必要以上の遠慮がない。

 つまり、値踏みの気配が皆無ということだった。それはどこまでも実務の色をしていた。

 喉元まで上がってくるやわらかい言葉を、あえて飲み込む。


()()()()。現金預金、外貨、有価証券、暗号資産、不動産、美術品と貴金属」


 端的に述べたおれの目を見て、思歩はタブレットに視線を戻す。スタイラスペンで余白に線を引き、おれのほうへタブレットを傾けた。


「わかりました。ではなおさら、きちんと線引きしましょう。あなたが婚姻前に取得した資産は、すべてあなたの財産(もの)だって、はっきり示せる書き方にしないと」


 ――まだない未来が、ここにだけ先行して映っている。


 表向きは平然と。

 おれは頷いて、膝の上で指を組んだ。

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