18.おうちデートの前
〈昼休み〉らしい雰囲気が出てきたときは、十五時をだいぶ下回っていた。
柊木が備え付けの丸テーブルにようやく腰を下ろすと、分厚い角2封筒とカップ焼きそばを小脇に抱えた思歩がやってきた。
思歩はキッチンの隅で唸るポットにちらと視線を送る。ポットには赤いランプが点いていている。
「あ、お湯、いま作ってるんだ」
「座る?」
「うん」
思歩は封筒をテーブルに置く。角は重みで少し潰れていた。表には端正な字で『株主間契約(案)』とある。
注ぎ口から蒸気が立ち上がり、カチッと湯沸かし完了の合図が鳴ると同時に、二人は立ち上がる。
「三分?」
「こっちは四分」
肩を並べて、ふたりでそれぞれのカップに湯を入れる。思歩は焼きそばの湯切り口のシールをはがし、柊木はスープのほうに粉末を先入れする。
タイマーの残りを眺めながら、小袋のソースをフタの上で指で押して柔らかくする。
思歩が湯切りをすると、焼きそばの匂いが、蛍光灯の熱にあぶられて薄く漂う。
「そういえば、〈婚前契約書〉はどうなったの?」
「順調だよ。今度うちで内容を詰めるつもり」
思歩の口からぽろっと出た言葉に、耳を疑った。
うちで。……家で?
この子はまた、何気ない顔で……。
当の思歩はといえば、涼しい顔で箸を回している。絡んだ麺をほどく手つきで、ソースが均一に絡む。
「え? おうちデートってこと?」
「財産とか遺言について話すの。外では無理だし」
すました顔で言うから、つい笑いがこみあげる。
外では無理。確かにね。
ファミレスで若い男女が〈遺留分〉なんて言い出したら、隣の席まで冷える。
「ハグはいつでもいいですよーって附則にでも仕込んどいたら?」
「入れるわけないでしょ」
真面目な顔で言っちゃって。そういうところは好きだ。
けど、どんなものにも抜け穴はある。
「入れるわけない、ってのは違うでしょうよ。〈夫婦生活〉の条項くらいあるでしょ。スキンシップの扱いについて定める項目がさぁ」
思歩が少しだけ渋い顔になる。大方、事務所に来た依頼者たちの顔がスライドショーみたいに横切っているのだろう。
〈スキンシップ〉のすれ違いを重ねて別居や家裁の調停にもつれ込むケースは本当に多い。
しかし。
「……まあね」
そうつぶやく耳元が、ほんのりと赤い。それを見逃す柊木ではない。
弁護士事務所に転がり込んでくる家事事件、それも男女トラブルはもっと生々しい。思歩はそういう文言を見慣れている。〈スキンシップ〉の内訳を想像したくらいで赤面する人じゃない。
と、いうことは。つまり。
いや、やっぱりと言うべきか。
これは完全に〝落ちて〟いる。そのお相手が好きってことだ。実にシンプル。
にやけそうになる頬を指先で無理やり伸ばし、柊木は口を開いた。
「さすがに『回数』は現実的じゃないけどさ。酩酊時はダメ、同意なき接触はダメ、録音録画も当然ダメ……」
「……〈甲と乙は、互いにスキンシップをとるよう努めるものとします。〉入れるとしたら、これくらいかな」
「えー。それだけ?」
「努力規定に留めないと。それ以上書いたら、義務感が出てくるでしょう」
「撮られるのはまずいと思うけどなぁ」
そう言いつつスープをすする。やや雑に振った話題だったが、思歩は思いのほか考えていた。やがて、ぽつりと言った。
「そういうの、しなさそう」
「しなさそう?」
さすがの柊木も目を剝いた。
「ウソでしょ、あんたの口からそんな言葉が出るなんて。契約絡みなのに!」
「しないと思う。カメラは好きじゃないみたいだから。与信かな」
「主観だよー。性格占いじゃないんだよ?」
「まあ、そうね」
「ちゃんとわかってる? なにもあんたの彼を疑ってはいないわけ。彼を守る条文でもあんの。つまり、あんたにとって彼はうっかり『いろんな姿』を撮りたくなるくらい大好き……」
「柊木」
「はいはい。黙ります。……ま、惚れてても、契約は冷静にね」
「言われなくても」
そこで、なんとなく会話が先送りになる。思歩が焼きそばをひと口、柊木がスープをひと啜りする。
「……でも『録音・録画・写真撮影は、相手の同意なく行わない』くらいは入れてもいいと思うけどなー」
「ダメだよ」
思歩の否定は早かった。
「それだと、不貞とかDVとか有責事由の立証が難しくなるでしょ。音声や動画が有力な証拠になるのに」
「それはそうだけど。そこまで考える?」
「考えるよ。私がやらかさない保証はどこにもないもの」
「思歩が?」
数秒だけ、柊木は想像してみる。思歩が怒鳴りつける、腕を掴んで壁に押しつける、机に拳を叩きつける──だめだ。まったくイメージが湧かない。
「無理だと思うけどねぇ。自己認識が変だよ?」
思歩はストローの包装紙を指先でくるくる丸めながら、つぶやくように言った。
「変ではないでしょ。〝絶対〟なんてないんだから」
「まあ……」
渋々、同意の声をもらす。弁護士補助である柊木もまた知っている。
〝絶対〟など存在しないことを。
愛を口にしながら暴力をふるう。
相手を思いやる素振りを見せながら不貞をする。
慈しみと称して伴侶の心を追い詰める。
そうした矛盾した関係性は、この業界では決して珍しくはない。
「〈常時監視の禁止〉くらいは明記してもいいかな。……婚姻後の改定案にする」
「婚姻後。ふむ」
「定期見直し条項も付ける。年一で」
年一の見直し。点検。オイル交換。愛情を機械みたいに整備する。
長く保たせるために。
柊木はぬるくなったカフェオレをひと口すすって、にやりとした。
思歩は目を合わせなかった。食べ終えた容器をビニール袋に詰め、固く結び目を作った。




