17.言葉と形式
思歩もまた、表向きはにこやかにケーキを楽しみ、このみに話を振っていた。
皿もグラスも空になった頃、このみに手土産のクッキーを渡す。彼女はそれを恐縮しながら受け取り、トートバッグにおさめて、そっと口を開いた。
「そろそろ、失礼しますね。あの、今日は……ありがとうございました」
「こちらこそ。気をつけて帰ってね」
時仁さんがそう言うと、このみは会釈して出ていった。
彼が、こちらに向き直る。
「九坂さん、素直でいい子でしょ」
「ええ。かわいい人ですね」
そうは言ったが、頭では別のことを考えていた。
──彼は、ときどき抜けている。
感情の機微には聡いのだが、いかんせん社交的すぎる。
彼は〈配慮〉を当然のように振り撒く。だから他人の親切も、同じ作法の〈返礼〉として受け取ってしまう。偏った好意ではなく。
気遣いは行き届くのに、向けられる温度にはにぶい。その非対称が、彼を鈍感に見せる。
だから、このみの素直さがどこから来るのか、その根源にきちんと目を向けられているかは怪しい。
そうでなければ、自分とこのみを鉢合わせて、あんなに穏やかでいられるはずがないのだ。
結婚を見据えて付き合っている女に、他の女と談笑しているところを見られる。
九歳年下の女子大生と。
言葉にしてみれば、ほとんど修羅場である。
彼女には保護者めいた視線を向けていたのだろうが、それにしても。子どもに懐かれているという優越感のひとつくらい、滲んでもよさそうな状況だったのに、彼にはそれすらなかった。
このみのほうは、明らかに彼に対して好意を持っている。恋、と呼ぶにはまだ淡いだろうか。年上の異性に対する憧れや尊敬。
距離を詰めるたびに嬉しそうにして、目が泳いで、それでもなんとか言葉を繋げようとする。そういうときの女の子は、見てるほうまでつい赤くなってしまうくらいに、かわいい。
〈先生〉に抱くまなざしは、いずれ恋にたどり着くだろう。
だが、彼がこのみをそういう目で見ることはない。なにせ学生だ。恋愛対象として見るには、あと三年はかかるだろう。社会人二年目を超えたあたりで、ようやく。
──ああいう子とだったら、彼の人生はもっと、温かいものになったのだろうか。
思わず視線を落とした。
時仁さんは、無理に婚活なんかしなくてよかったはずだ。周囲からの対応を素直に受け取ってさえいたら、きっと気付けただろう。誰かから向けられる好意に。
それでも、思歩は彼に〈契約〉を提案した。
契約とは――結婚とは、そういうものだからだ。
本来する必要のないことを、わざわざするからこそ、意味を持つ。
とりわけ彼には〈家〉という重力がある。
私的な合意に対して、公的に検証可能な線に引き直す。
それは、感情だけでは守れないものを守る防波堤になってくれるだろう。
「……」
そこまで考えて、思歩は自分の心に呆れた。
言い訳を積み重ねてはいたが、本当は、自分に自信がないだけだ。
思歩は、面と向かって「好きです」とは言えなかった。たとえば、このみがいずれそうしたであろう無邪気さでは。
未来の話をするには、どうしても形式が必要だった。
そうでなければ、気持ちの実在を信じられないのだ。
この先、この心がどう変容するのかわからない。
同じような熱を、同じ形で保ち続ける自信が、ない。
こんなにも好きになってしまった人が、目の前にいるのに。
彼は滑らかな仕草でキッシュを食べ終え、フォークを置いた。皿をテーブルの脇にずらす。
その音を一区切りにして、思歩は口を開いた。出てきたのは実務の声色だった。
「家計と収入は、だいたい見えましたね。次は、財産と負債、その周辺を」
「うん」
「ただ……」
時仁さんの様子をうかがう。彼は契約書を持ち上げ、一枚めくると、小さく息をついた。
「ああ、これは……。うーん……」
彼の言わんとすることはわかる。彼に見せているプレナップは簡易化しているが、それでも書いてある文言は生々しいものばかりだ。
特有財産。負債。相続。遺言。
「人前でする話じゃないですよね。なので……」
一瞬、その結論を告げるのに逡巡する。彼はどう思うだろうか。しかし、合理的な判断のはずだ。
「うちに来てくれませんか」
「えっ?」
時仁さんが顔を上げる。その反応があまりにも無防備で、思わず笑ってしまう。
「数字も出しますから。軽く飲みながら……二人で」
「あー……」
彼は視線を泳がせた。言葉を探しているようだった。
「うん。行きます。その……」
いつも淀みなく話す彼が、少しだけ言葉に迷う。その様子がおかしくて、少しだけ、嬉しい。
ほどなく彼は調子を取り戻し、契約書をテーブルに置いた。
「……カフェで続けるよりは現実的だね。合意形成のあとはワインでも開けようか。それか、気軽にレモンサワーかハイボールでも? 何か、差し入れるよ」
そして、こちらをまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「招いてくれてありがとう。楽しみだ」
楽しみ。その言葉が、ほんの少し熱を帯びて聞こえた。




