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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第2章 家計と収入

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17.言葉と形式

 思歩(しほ)もまた、表向きはにこやかにケーキを楽しみ、このみに話を振っていた。


 皿もグラスも空になった頃、このみに手土産のクッキーを渡す。彼女はそれを恐縮しながら受け取り、トートバッグにおさめて、そっと口を開いた。


「そろそろ、失礼しますね。あの、今日は……ありがとうございました」


「こちらこそ。気をつけて帰ってね」


 時仁(ときひと)さんがそう言うと、このみは会釈して出ていった。

 彼が、こちらに向き直る。


「九坂さん、素直でいい子でしょ」


「ええ。かわいい人ですね」


 そうは言ったが、頭では別のことを考えていた。


 ──彼は、ときどき抜けている。


 感情の機微(きび)には(さと)いのだが、いかんせん社交的すぎる。

 彼は〈配慮〉を当然のように振り撒く。だから他人の親切も、同じ作法の〈返礼〉として受け取ってしまう。偏った好意ではなく。

 気遣いは行き届くのに、向けられる温度にはにぶい。その非対称が、彼を鈍感に見せる。


 だから、このみの素直さがどこから来るのか、その根源にきちんと目を向けられているかは怪しい。


 そうでなければ、自分とこのみを鉢合わせて、あんなに穏やかでいられるはずがないのだ。


 結婚を見据えて付き合っている女に、()()()と談笑しているところを見られる。

 ()()()()()()()()と。


 言葉にしてみれば、ほとんど修羅場である。


 彼女には保護者めいた視線を向けていたのだろうが、それにしても。()()()に懐かれているという優越感のひとつくらい、滲んでもよさそうな状況だったのに、彼にはそれすらなかった。


 このみのほうは、明らかに彼に対して好意を持っている。恋、と呼ぶにはまだ淡いだろうか。年上の異性に対する憧れや尊敬。


 距離を詰めるたびに嬉しそうにして、目が泳いで、それでもなんとか言葉を繋げようとする。そういうときの女の子は、見てるほうまでつい赤くなってしまうくらいに、かわいい。


 〈先生〉に抱くまなざしは、いずれ恋にたどり着くだろう。


 だが、彼がこのみをそういう目で見ることはない。なにせ学生だ。恋愛対象として見るには、あと三年はかかるだろう。社会人二年目を超えたあたりで、ようやく。


 ──ああいう子とだったら、彼の人生はもっと、温かいものになったのだろうか。


 思わず視線を落とした。


 時仁さんは、無理に婚活なんかしなくてよかったはずだ。周囲からの対応を素直に受け取ってさえいたら、きっと気付けただろう。誰かから向けられる好意に。


 それでも、思歩は彼に〈契約〉を提案した。


 契約とは――結婚とは、そういうものだからだ。

 本来()()()()()()()ことを、()()()()()()からこそ、意味を持つ。


 とりわけ彼には〈家〉という重力がある。

 私的な合意に対して、公的に検証可能な線に引き直す。

 それは、感情だけでは守れないものを守る防波堤になってくれるだろう。


「……」


 そこまで考えて、思歩は自分の心に呆れた。

 言い訳を積み重ねてはいたが、本当は、自分に自信がないだけだ。


 思歩は、面と向かって「好きです」とは言えなかった。たとえば、このみがいずれそうしたであろう無邪気さでは。

 未来の話をするには、どうしても形式が必要だった。


 そうでなければ、気持ちの実在を信じられないのだ。

 この先、この心がどう変容するのかわからない。

 同じような()を、同じ形で保ち続ける自信が、ない。


 こんなにも好きになってしまった人が、目の前にいるのに。


 彼は滑らかな仕草でキッシュを食べ終え、フォークを置いた。皿をテーブルの脇にずらす。

 その音を一区切りにして、思歩は口を開いた。出てきたのは実務の声色だった。


「家計と収入は、だいたい見えましたね。次は、財産と負債、その周辺を」


「うん」


「ただ……」


 時仁さんの様子をうかがう。彼は契約書を持ち上げ、一枚めくると、小さく息をついた。


「ああ、これは……。うーん……」


 彼の言わんとすることはわかる。彼に見せているプレナップは簡易化しているが、それでも書いてある文言は生々しいものばかりだ。


 特有財産。負債。相続。遺言。


「人前でする話じゃないですよね。なので……」


 一瞬、その結論を告げるのに逡巡する。彼はどう思うだろうか。しかし、合理的な判断のはずだ。


「うちに来てくれませんか」


「えっ?」


 時仁さんが顔を上げる。その反応があまりにも無防備で、思わず笑ってしまう。


「数字も出しますから。軽く飲みながら……二人で」


「あー……」


 彼は視線を泳がせた。言葉を探しているようだった。


「うん。行きます。その……」


 いつも淀みなく話す彼が、少しだけ言葉に迷う。その様子がおかしくて、少しだけ、嬉しい。

 ほどなく彼は調子を取り戻し、契約書をテーブルに置いた。


「……カフェで続けるよりは現実的だね。合意形成のあとはワインでも開けようか。それか、気軽にレモンサワーかハイボールでも? 何か、差し入れるよ」


 そして、こちらをまっすぐに見つめて、微笑んだ。


「招いてくれてありがとう。楽しみだ」


 楽しみ。その言葉が、ほんの少し熱を帯びて聞こえた。

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