16.自然な距離
ボルダリングの帰り、九坂このみは駅の地下街を歩いていた。ホテル直結の地下街には、奥のほうにひっそりと佇むカフェがある。その前を通ったとき――ガラス越しに見えた人影に、はたと足を止める。
鷹津先生だった。
窓際の卓に、一人。何か転がしている自分の指先を、ぼんやりと眺めている。
ジャケットもネクタイもないけれど、スーツ姿だとわかった。ぴしっと糊が利いた白いシャツ。地下街のカフェには少し場違いな、磨かれた靴のつま先が光を弾いている。
一瞬、見間違いかと思った。自分がよく知る〈先生〉の姿とは、少し違っていたから。ジムウェアとはまるで違うきちんとした服装も、少し退屈そうな表情も。
(今日、来ないって言ってたのに)
どうしようか迷っていると、ガラス越しに視線が合った。先生は、少し驚いたように目を見開いて、それから小さく手を振った。
買い物袋を持ち直す。そのまま、カフェの中へ入った。
「先生……。あの、鷹津さん。こんばんは」
「こんばんは。九坂さんはジム帰り?」
「はい。ちょっと買い物も。……どうしてここに?」
「待ち合わせなんだ。もしよかったら、何か飲んでいく?」
「えっ。いいんですか?」
「うん。相手も少し遅れるらしくてね。あと三十分はかかるかな」
そう言いながら、ごく自然に左手首へ視線を落とした。そこにはいつものスマートウォッチではなく、黒革ストラップのドレスウォッチが巻かれている。
向かいに座ると、先生は軽く指先を上げて店員を呼び止めた。その所作の美しさに、視線が吸い寄せられる。
装いのせいだけじゃない。砕けた態度を取ってはいるけれど、先生の動きには、いつもどこか品がある。
店員さんには、アイスティーをお願いした。
「今日、来ないって言ってたから。ここにいてびっくりしました」
「昼に、ちょっと改まった集まりがあってね」
「そうなんですね」
糊のきいた襟、きっちり折れた前立て。髪は少し乱れているが、それはきちんと整えたのを、後から崩したという感じだった。
先生は、小さなミント缶をテーブルの上に置いた。
「それ、かわいいですね」
「もらいものなんだ」
グラスが運ばれてきて、ストローの包みを破る。先生がわたしの指先を見て、微笑んだ。
「今日は登ってきたんだね。四級に進んだ?」
「毎回、最後のほうで落ちちゃって」
「いいところまでは行ってるってことだ」
昔と同じ言い方だった。正解は教えないけれど、背中を押してくれる。
うん、と頷くと、先生は少しだけ目を細めた。ちゃんと見てくれている感じがして、温かい気持ちになる。
「大学も、忙しくなってくる頃だね」
「はい。卒論の準備は、ぼちぼち。就活も、そろそろって感じで」
「締切を全部カレンダーに書いとくと楽になるよ」
「先生、そういうの得意そう」
「忘れっぽくてね」
なにを言えばいいか迷っているうちに、沈黙が落ちる。
「……今日の格好。とてもすてきです」
「そう?」と、襟元に指で触れて、小さく笑う。
「ありがとう」
そのとき、正面でからりとベルが鳴った。
目を上げる。黒髪をすっきりまとめた女性が入ってくる。白いシャツに薄い水色のカーディガン。姿勢がすっときれいだ。
彼女はまっすぐこちらにやってきた。
心臓が小さく跳ねる。
あ、この人なんだ。待ち合わせの相手は。
――女の人、なんだ。
「お待たせしてごめんなさい。急ぎの直しが一本入ってしまって」
「大丈夫。こっちも早く着きすぎただけだよ」
たった二言で場がやわらぐ。
「……でも、それにしたって次の約束を取り付けるのが早すぎません?」
「たまたまそこで会ったんだ」
「たまたま?」
「言わなかったっけ。ここはボルダリングジムが近くてね。月二回はそこで登ってる。彼女はサークルのメンバーだよ。九坂このみさんだ。ほら、前に……」
「ああ、教え子さん。なるほど。なんとなく見えてきました」
先生にそう言って、少し迷ったような素振りを見せてから、彼女はわたしの隣に座った。
「こんばんは。野江田思歩といいます」
空気が自然に和らいだ。
静かだけれど、笑顔が差すと一気に場が明るくなる。不思議な存在感があった。
「あ、九坂です。九坂このみ。はじめまして……」
「よろしければ、握手してくださいますか?」
「は、はい……」
言われるがまま右手を差し出す。そっと握り込まれた。程よく冷たくて、やさしい手だった。
なんとなく「すごい人なんだろうな」と直感する。
「あ……あの、前にちょっと、先生……鷹津さんに教わったことがあって」
「ええ、伺っています。ボルダリングも続けてるって。継続できるのって本当に素敵です」
「いえ、そんな……」
緊張して、声がうまく出せなかった。
思歩さんが私のグラスに視線を落とした。溶けきった氷まで飲んでしまって、空っぽだ。
「九坂さん、甘いものは平気? 柑橘とかナッツのアレルギーはありませんか?」
「だ、だいじょうぶです」
「じゃあ――すみません、アイスティーを二つ。季節のタルトとガトーショコラを一つずつください」
注文が終わってから、思歩さんが先生をからかうように見る。
「先生、レディのグラスが空いてますよ。減点です」
ふ、と先生が笑う。その笑い方がひどくやさしくて、胸の奥が少し熱くなる。
「ご指摘痛み入ります、〈先生〉」
「口頭注意で済ませます。以後気をつけるように」
「ごめんね、九坂さん。気が回らなくて」
「いえ……」
「償いに、手土産を追加してくださいね。焼き菓子がいいです」
「承知しました」
冗談めかしたやりとりは、心地がいい。
追加注文をするだけなのに、場をほどく手つきに迷いなくて、やさしい。
──あ、こういうのを、大人っていうんだ。
なんてことのない雑談だ。
でも、二人のやりとりは、距離が近くて。自然で。
見てはいけないものを覗いてしまったような、心がざわりと波立つような感覚があった。
――先生って、こんなふうに笑うんだ。
私と話してるときと、声が違う。
ずっと昔から、話し慣れてるみたいに。
わたしの中の子どもが、小さくつぶやく。
ずるいよ。
そんな自然な距離で、先生と並んでいられるなんて、ずるい。




