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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第2章 家計と収入

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16.自然な距離

 ボルダリングの帰り、()(ざか)このみは駅の地下街を歩いていた。ホテル直結の地下街には、奥のほうにひっそりと佇むカフェがある。その前を通ったとき――ガラス越しに見えた人影に、はたと足を止める。


 (たか)()先生だった。

 窓際の卓に、一人。何か転がしている自分の指先を、ぼんやりと眺めている。


 ジャケットもネクタイもないけれど、スーツ姿だとわかった。ぴしっと糊が利いた白いシャツ。地下街のカフェには少し場違いな、磨かれた靴のつま先が光を弾いている。


 一瞬、見間違いかと思った。自分がよく知る〈先生〉の姿とは、少し違っていたから。ジムウェアとはまるで違うきちんとした服装も、少し退屈そうな表情も。


(今日、来ないって言ってたのに)


 どうしようか迷っていると、ガラス越しに視線が合った。先生は、少し驚いたように目を見開いて、それから小さく手を振った。

 買い物袋を持ち直す。そのまま、カフェの中へ入った。


「先生……。あの、鷹津さん。こんばんは」


「こんばんは。九坂さんはジム帰り?」


「はい。ちょっと買い物も。……どうしてここに?」


「待ち合わせなんだ。もしよかったら、何か飲んでいく?」


「えっ。いいんですか?」


「うん。相手も少し遅れるらしくてね。あと三十分はかかるかな」


 そう言いながら、ごく自然に左手首へ視線を落とした。そこにはいつものスマートウォッチではなく、黒革ストラップのドレスウォッチが巻かれている。


 向かいに座ると、先生は軽く指先を上げて店員を呼び止めた。その所作の美しさに、視線が吸い寄せられる。


 装いのせいだけじゃない。砕けた態度を取ってはいるけれど、先生の動きには、いつもどこか品がある。


 店員さんには、アイスティーをお願いした。


「今日、来ないって言ってたから。ここにいてびっくりしました」


「昼に、ちょっと改まった集まりがあってね」


「そうなんですね」


 糊のきいた襟、きっちり折れた前立て。髪は少し乱れているが、それはきちんと整えたのを、後から崩したという感じだった。


 先生は、小さなミント缶をテーブルの上に置いた。


「それ、かわいいですね」


「もらいものなんだ」


 グラスが運ばれてきて、ストローの包みを破る。先生がわたしの指先を見て、微笑んだ。


「今日は登ってきたんだね。四級に進んだ?」


「毎回、最後のほうで落ちちゃって」


「いいところまでは行ってるってことだ」


 昔と同じ言い方だった。正解は教えないけれど、背中を押してくれる。


 うん、と頷くと、先生は少しだけ目を細めた。ちゃんと見てくれている感じがして、温かい気持ちになる。


「大学も、忙しくなってくる頃だね」


「はい。卒論の準備は、ぼちぼち。就活も、そろそろって感じで」


「締切を全部カレンダーに書いとくと楽になるよ」


「先生、そういうの得意そう」


「忘れっぽくてね」


 なにを言えばいいか迷っているうちに、沈黙が落ちる。


「……今日の格好。とてもすてきです」


「そう?」と、襟元に指で触れて、小さく笑う。

「ありがとう」


 そのとき、正面でからりとベルが鳴った。


 目を上げる。黒髪をすっきりまとめた女性が入ってくる。白いシャツに薄い水色のカーディガン。姿勢がすっときれいだ。


 彼女はまっすぐこちらにやってきた。

 心臓が小さく跳ねる。

 あ、この人なんだ。待ち合わせの相手は。


 ――女の人、なんだ。


「お待たせしてごめんなさい。急ぎの直しが一本入ってしまって」


「大丈夫。こっちも早く着きすぎただけだよ」


 たった二言で場がやわらぐ。


「……でも、それにしたって次の約束を取り付けるのが早すぎません?」


「たまたまそこで会ったんだ」


「たまたま?」


「言わなかったっけ。ここはボルダリングジムが近くてね。月二回はそこで登ってる。彼女はサークルのメンバーだよ。九坂このみさんだ。ほら、前に……」


「ああ、教え子さん。なるほど。なんとなく()()()()()()()


 先生にそう言って、少し迷ったような素振りを見せてから、彼女はわたしの隣に座った。


「こんばんは。野江田(のえだ)思歩(しほ)といいます」


 空気が自然に和らいだ。

 静かだけれど、笑顔が差すと一気に場が明るくなる。不思議な存在感があった。


「あ、九坂です。九坂このみ。はじめまして……」


「よろしければ、握手してくださいますか?」


「は、はい……」


 言われるがまま右手を差し出す。そっと握り込まれた。程よく冷たくて、やさしい手だった。


 なんとなく「すごい人なんだろうな」と直感する。


「あ……あの、前にちょっと、先生……鷹津さんに教わったことがあって」


「ええ、伺っています。ボルダリングも続けてるって。継続できるのって本当に素敵です」


「いえ、そんな……」


 緊張して、声がうまく出せなかった。


 思歩さんが私のグラスに視線を落とした。溶けきった氷まで飲んでしまって、空っぽだ。


「九坂さん、甘いものは平気? 柑橘とかナッツのアレルギーはありませんか?」


「だ、だいじょうぶです」


「じゃあ――すみません、アイスティーを二つ。季節のタルトとガトーショコラを一つずつください」


 注文が終わってから、思歩さんが先生をからかうように見る。


()()、レディのグラスが空いてますよ。減点です」


 ふ、と先生が笑う。その笑い方がひどくやさしくて、胸の奥が少し熱くなる。


「ご指摘痛み入ります、〈先生〉」


「口頭注意で済ませます。以後気をつけるように」


「ごめんね、九坂さん。気が回らなくて」


「いえ……」


「償いに、手土産を追加してくださいね。焼き菓子がいいです」


「承知しました」


 冗談めかしたやりとりは、心地がいい。

 追加注文をするだけなのに、場をほどく手つきに迷いなくて、やさしい。


 ──あ、こういうのを、大人っていうんだ。


 なんてことのない雑談だ。

 でも、二人のやりとりは、距離が近くて。自然で。

 見てはいけないものを覗いてしまったような、心がざわりと波立つような感覚があった。


 ――先生って、こんなふうに笑うんだ。


 私と話してるときと、声が違う。

 ずっと昔から、話し慣れてるみたいに。


 わたしの中の子どもが、小さくつぶやく。


 ずるいよ。

 そんな自然な距離で、先生と並んでいられるなんて、ずるい。

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