15.昼餐会
土曜日になった。少しだけ気が重い。
今日は正午から〈公益財団法人 東汐文化振興財団〉の年次報告会がある。
プログラムは、収支の概況と助成先の報告、来期の方針、寄付者銘板更新の案内。理事・賛助会員・提携先の顔合わせも兼ねて、日比谷の老舗ホテルで昼餐会が開かれる。
要するに、名刺と、近況と、集金袋が行き交う場。
受付でマグネット式名札を受け取る。
「時仁さまには、こちらのテーブルで……」
鷹津家を冠として出資している〈鷹津記念プログラム〉の寄付者テーブルに席が当てられていた。
兄夫妻は理事会フロアにいるだろう。母は後援者サロンの輪に吸い込まれていった。父は開会の辞を終えるとすぐに控室へ向かう。
その途中、肩に手が置かれた。
「頼んだぞ」
うなずく間もなく、革靴の音が遠ざかっていく。
ベストの右ポケットには、胃薬みたいな顔をしたミントタブレットの缶。シルエットにはギリギリ響かなかった。この場における唯一の味方だ。
ストレスが胃にくるという経験はついぞないが、それでも支えは要る。
「まあ、時仁坊や。お久しぶりね」
澄江夫人。旧第一地銀で顧問を務めた故・鷺森氏の奥方。母の茶会の常連。
「ご無沙汰しております。お変わりないようで」
「変わりませんとも。お兄さまはご健勝かしら」
「ええ。変わらず務めております」
相手も逸れた回答を求めてはいない。次男の役割は、家の顔に徹すること。それだけでいいのだから気が楽だ。おれの中には、礼に徹するための手続き記憶が揃っている。
求められているのは、相手の求める答えを適切に吐き出せるお行儀のいいスピーカー。できれば男。それだけ。
乾杯のグラスが上がる。スピーチは二つ。
各席には、白い封筒と寄付申込カードが置かれている。おれは銘板表示名に〈鷹津〉と記した。額は迷わない。「後日振込」に丸をつけて封を閉じると、白手袋の係が静かに回収していった。
頃合いを見計らってか、隣にいた銀縁眼鏡の男性が話しかけてきた。
網代さん。大手広告会社の文化事業部で長く企画を担ってきた。今は提携ホールの理事だ。
「再来月にフォーラムがありましてね。時仁くん、そこで十五分ほど話していただけませんかな」
「どのような内容か、お伺いしても?」
「学生向けの連続企画でね。テーマは〈若手の働き方〉について。ショートトークの二本立てです」
「それでしたら、私よりも名の通った適任を何名か知っております。よろしければ、繋ぎましょうか」
「ありがたいね。しかし今回は、君にお願いしたい。現場から指名があってね」
一拍、喉が止まる。
おれの場合、前に出て喋るほうがうまく回ってしまうのも知っている。きっと、人前に出る仕事のほうが、おれにとっては適性なのだ。忌々しいことに。
「光栄です。私でよければ、喜んで」
気絶していてもこなせそうな応対を終えたところで、デザートの皿が運ばれてきた。
サントノーレだった。飴細工が照明を拾って琥珀色に光っている。王冠のように配した小さなシューの間から、バニラの香りがふっと立つ。
フランスの菓子。
向かいに座っているご婦人に視線をやる。
江戸小紋の衿元に萩の銀細工ブローチを合わせているのは八重夫人だ。桂良木物産の名誉会長夫人。祖父がフランス駐在だった頃に始まった縁で、家の往来はもう半世紀になる。
その八重夫人がスプーンを置き、ふと思い出したという顔で口を開いた。
「ところで時仁さん。今度、うちの孫娘が帰国するのよ」
……ああ。孫娘。おれと同学年のね。
一瞬だけ、胸がざわつく。
その意味について深く考えるより前に、言葉が出ていた。
「ご令孫は、国際文化事業に携わっておいでだと伺っております。ご帰国後もお忙しくなさるのでしょうね」
彼女は嬉しそうに両手を合わせた。
「ええ、ええ。その娘です。如何かしら、一度お食事でも。お見合いなんて今時古いのかしら、なんて思うけれど」
やっぱり、こうなる。
嘘はつかないが、真実を晒け出すこともない。
「恐れ多いお話です。今は身辺の整理を優先しておりまして。ご縁の話は時期が整いました折に。今回は、失礼させてください」
「あら、お行儀のいいこと」
行儀の良さは防御力だ。機先を制するという意味では、攻撃力ともいえるが。
だが、今回は空振り。次の乾杯で、夫人が記憶ごと水に流してくれることを願おう。
かわいがり担当も忘れずにやってくる。
「鷹津の次男坊かね。背はもう止まったか?」
「香邑さま。ご無沙汰しております」
立ち上がって握手を交わす。
香邑 敬蔵。父の古い友人だ。旧第一地銀の副頭取を経て引退、いまは文化施設の評議員をしている。父とは山歩きもする(要確認。聞いとけばよかった。凡ミス)。
「ふむ、君は昔から据わりがいいな。若いのに落ち着きがある。そのカフスもよい」
「もったいないお言葉です」
褒め言葉に脈絡がなくて、むしろ救われる。本心のように思えるから。真心には物語がない。
「褒めておだてて、ついでに頼みごとをするのが老人の嗜みでね。再来月のフォーラムも、断れんかったろう?」
碁の先手を読むような、事情をすでに知っている口ぶり。
「ご指名を賜りましたので、ありがたくお受けしました」
平然と告げると、紳士は口角だけで満足げに笑った。
「よろしい。――では、また碁会所で君のお父上をいじめてくるとしよう」
そうして、銀のステッキを光らせながら去っていく。
スピーチがまた始まる。祖父の事績が語られ、笑いが起き、拍手が散る。
午後三時を少し回ったところで終了の音楽が流れて、人の流れが生まれる。
会釈、握手、名刺。ここでは家の名前以外、たいした意味を持たない。
「ご紹介だけでも」の依頼が二つほど重なった頃合いに、おれは席を外す。
ホテルの自動ドアが滑って開く。
同時に、名札をむしり取るように外した。
ああいう場所が苦手なわけじゃない。もう慣れてしまった。今更、逃げ出したいとも思っていない。そんなセンチメンタルは思春期で済ませた。
だからこそだ。
ふと、思歩の顔がよぎる。
――ここに。こういう場所に。彼女を連れてきてもいいのだろうか。
おれが楽になるために、彼女を利用しようとしてはいないか……。
疑念。あるいは不安。それが喉に張りついている。
おれはポケットからミントタブレットを取り出した。手のひらにじゃらりと開けたものを、そのまますべて口に放り込み、無心で噛み砕いた。




