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恋は条項にありません!  作者: 遠野 文弓
第2章 家計と収入

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13.実地検証という名の ②

 二人席のテーブルには資料はない。おれたちはお互いのタブレットで契約書(それ)を見ていた。


「第5条から第8条は、家計の費目と、生活費の出し方・管理方法ですね」


 おれはつぶやいた。


「そういや、既婚の先輩は〈おこづかい制〉って言ってたな。毎月親から一定額をもらうってやつだよね。夫婦間でもあるんだな」


「そういうおうちは多いと思いますよ。……でも、変な言い方しますね。時仁(ときひと)さん、おこづかいはもらったことないんですか」


 おれはタブレットに目を落としながら、ほぼうわの空で答えた。


「うん。ないな」


 思歩は少し目を見開いた。


「学生時代はどうされてたんですか?」


「それは……」


 言いかけて、おれははたと黙り込んだ。


 参ったな。うっかりしていた。

 この話は、他人の前では絶対に出したくない話題だったのに。

 しかし、濁すのは意味がない。もし彼女と結婚するのであれば、いずれ数字ごと晒すものだ。


 だが、()じゃない。


 おれが口を開く前に、思歩が慌てて手を振った。


「あ、ごめんなさい。外で話すことではないですね。重要なのは、生活費の拠出について同意できるかどうか、ですから」


「……そうだね」


 助け舟というよりは、標識の再確認。運用方法を決める流れに引き戻される。

 彼女の合理性にはつくづく驚かされる。所有資産について外では話させない。リスクに対する嗅覚は充分だ。


 彼女になら、資産の話をしてもこじれなくて済みそうだ――と、なぜだか安堵している自分が出てきて、すぐにそれを頭から押しやる。

 これは『理解されるかもしれない』という怠惰な期待にすぎない。


 思歩はPDFの該当ページを指で示した。


「でも、夫婦の〈おこづかい制〉って、法律の目線で見るとちょっと独特なんですよ」


「独特?」


「日本は原則〈夫婦別産(べっさん)制〉です。つまり、名義はそれぞれのものなんですけど。婚姻中の給与や、それで貯めた預金は、財産分与の対象になりやすいんですよね」


「自分名義だから完全に自分のもの、とは言い切れないわけか」


「はい。たとえ片方の口座からでも、離婚のときは分けることがあります。名義と実質は別物で……家計に組み込まれているかどうか、が見られるので」


 おれは少し考えてから、手元のタブレットに目を戻した。

 制度ってのは答えを出すけど、感情の処理までは請け負ってくれないんだよな。


「名義は別なのに、収入は家計に入った瞬間にまとめて扱われがちってことか。……法と生活の噛み合わせが悪いな」


「そうですねぇ。運用は『生活費用の口座は一緒』『婚前資産や相続・贈与は別管理』というのが、一番ズレが少ないと思います」


 思歩は続けて、タブレットを手早くスワイプする。


「配当や利息も、婚姻中に形成された部分は分与の争点になり得ます。だから〈家計〉の範囲は決めておいた方がいいですね。たとえば……『共同口座の使途』と『一定額以上は事前協議』。ここを契約で明確にしておくと、揉めにくいと思います」


「一定額以上って、どのくらいだろう」


「無断で購入できる範囲は『一回の会計で二万円以内』、それ以上は相手に報告しなきゃダメ、みたいな」


「有価証券やギャンブルは?」


「別途条項を立てます。ここはあくまで嗜好品の話ですね。『書籍は月一万円以内』『被服費は三万円以内』って細かく区切ってもいいですが」


 書籍で一万。被服で三万。高いのか安いのか、よくわからなかった。そういう判断をあまりしたことがないからだ、と遅れて思い至る。


 比較検討をやるにしても、値段は妥当性をはかる指標でしかなかった。ものを買うのは常に()()()()()であって、金額の高下(こうげ)に購買意欲が左右されることはまずない。

 十万円以下であればなおのこと。


 それがおれにとっての〈普通〉だった。他人の境遇を聞くまで、金の話で噛み合わない理由が〈育ち〉にあるとは思っていなかった。


 詰まるところ、おれにとっての〈普通〉は、たいそう恵まれている。

 そして、この問題に口を差し挟むには無知すぎる。


 おれは視線を上げた。


「生活費は、給与所得から共有口座に入れる。この方針で問題ないよ。管理も楽そうだし。……この契約書は、弁護士に見せるつもり?」


「はい。できれば公正証書にしたい、ですが……」


「賛成だ。それがいいと思う」


 正解がわからないときは、有識者の意見にいったんすべて従い、後日レビューをするのが好手(こうしゅ)である。手探りで調査したり、自力で考えたりすると、ますます悪い方向へ転がる。


 思歩が、どこかほっとしたように笑う。


「じゃあ、『共同口座の使途』を明確にして、『事前協議を要する一定額』を決めましょう。当分はこれだけで良いと思います」


「うん。ルールは最小限で済ませたい」


「了解です。では――」


 しかし、おれは事前協議を要する買い物をどれくらいするだろうか。


 酒とコーヒーは飲むが、こだわりはない。書籍は情報収集のため。走るためのガソリンに、たまの洗車用品。サークルの会費とボルダリングの月額。親の提案で続けている定額寄付――これは、事前申告の範囲かどうか確認しておけば足りる。


 支出は、家賃も含めて給与所得の範囲内に収まっている。生活費を出し合う際に足りなければ、何かを切り詰めればいい。外食でも、ジムでも、本でも。削るのは()()()()()()


 タブレットの縁を親指でそっとなぞる彼女の指先が視界に入り、思わず視線を逸らした。


 おれには、欲しいものがない。

 欲しがる資格がない。

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