12.実地検証という名の ①
思歩の仕事が終わったタイミングを見計らって電話をかける。本当はメールかLINEでもいいのかもしれないが、どうにもおれは通話のほうがやりやすい。
声が聞きたかった。
言葉を直接交わさないと、どこか嘘になる気がする。内容が内容だけに、テキストで済ませたくなかったというのもある。言い訳はいつでも二枚重ねにしておく。
『はい』
一コールで出た声に、胸の奥が少し軽くなる。
「早いね。……今いいかな?」
『ええ、大丈夫です。週末の予定を聞きたいんでしたっけ』
段取りは覚えている。こちらの〈用件〉はまだ礼儀の範疇だろう。逃げ道はいらない。まだ。いや……。
「うん。今週の土曜は空いてる?」
『空いてますよ』
おれが誘導した空白が一つ、差し出される。
「二、三時間ほど、付き合ってくれないかな。その……」
デートしない? ――は、いくらなんでも距離を詰めすぎ。
遊びにいかない? ――は軽薄すぎる。学生じゃないんだから。
何か免罪符はないか。足場、儀礼、肩書。おれたちが安心して触れられる〈名目〉はないか。
「駅前の大型書店がリニューアルしたよね。よければ、一緒に行かない?」
足場。これは日和見すぎ。負けない選択肢といったところか。妥当に着地させようとするのは、たぶん、おれの悪い癖だ。
だが、今の関係性だったら適切な距離感なんだろうか。わからなくなってきた。
一瞬だけ逡巡したような気配を察して、おれは言葉を重ねる。
「そうだな、〈実地検証〉ってことで。契約書についても細かいところを詰めたいし。どうかな?」
言いながら気づく。そうだ、免罪符は〈婚前契約書〉で充分じゃないか。そもそも思歩が持ってきた案件なんだから。
おれは自分で思っているより、ずっと混乱していたらしい。……何に対して?
電話口の向こうで、思歩がくすりと笑った。
『……じゃあ、資料写真用にカメラも持っていきますね』
その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
「いいけど、おれの写真は撮らないでね」
『えー。それじゃ検証にならないじゃないですか?』
「じゃあ、一緒に写ろうか。それならいいよ」
『ふふ。了解です。一緒に撮りましょう』
いずれにせよ、思歩と何時間かを共にすることは決まった。
*
リニューアルした大型書店で待ち合わせた。
深煎りのコーヒーに、紙とインクの匂いが混ざっている。磨かれた床を歩く靴音が低く反響する。一階の話題書コーナーに人いきれはあったが、不思議と落ち着く空間だった。
おれたちは並んで歩き、やがて別々の棚へ向かった。おれは新書、思歩は文芸。互いに黙って本を探しているだけなのに、それが心地よかった。何も話さなくていい、という感覚を穏やかに思えたのは、ずいぶん久しぶりだ。
手に取った本のページをめくっているとき、視線の端に彼女の横顔が映った。
彼女が一冊の本を手に取る。背表紙を撫でるように親指でなぞりながらページを開き、少し考えるように首を傾げる。それを棚に戻して、また別の背表紙を目で追っていく。
その慎重さと迷いのなさの同居が、とても彼女らしい。
「少し、休憩しようか」
奥のカフェスペースへ並んで歩き、トレーを持ってカウンターに並ぶ。
どれにするかを短く相談して、それぞれ注文した。
窓際の二人席に腰を下ろす。冷たいグラスを持ち上げると、コースターにじわりと染みが広がった。
「資料写真、撮っておきましょうか。『情緒の実在証明』ってキャプションで」
「おれの顔はどう処理するつもり?」
「モザイクで。著作人格権に配慮しますよ」
「冗談だよ。ふつうに撮ってくれ」
思歩がふっと笑い、グラスの結露をナプキンで拭う。
コースターの上では、輪っか状の染みが重なって、大きくなっていく。小さな惑星みたいだ。と、どうでもいい観測をしていた。




