11.次の一手
おれは午後一番の打ち合わせを前に、社員食堂の一角で一息ついていた。
白いトレーの上には食べ終えた定食のトレイと、紙コップに注いだブレンドコーヒー。
同席しているのは、以前同部署の先輩だった富久谷課長と、同期の凪島係長だ。
打ち合わせ帰りの社員たちが、ぽつぽつと入ってくる。建材部門の若手二人が奥のテーブルで何やら図面を眺めているのを、おれはぼんやりと眺めていた。
「うちは月五万だよ」
視線を戻す。
富久谷課長がコーヒーの紙カップを持ちあげていた。
課長はおれよりも十二歳年上。
同期でもある凪島は、係長になって早々に経営企画へ異動した。ちなみにおれの役職も係長だ。
「俺の小遣い。昼メシ代込み、床屋代もここから」
「ああ、〈おこづかい制〉ってやつですか?」
おれが聞くと、課長は頷いた。
「そ。給料は嫁の口座に振り込んでるんだ。家計管理も生活費の引き落としも全部そっちでやってる」
「へえ。面白い仕組みですね」
「はは。若いね。結婚したらこれが普通だよ」
おれは紙コップに口をつけたまま、数秒だけ考え込んだ。
自分の稼ぎをパートナーに預けて、〈おこづかい〉を受け取る。
それは信頼なのか。それとも……。
凪島が静かに口を開いた。
「いまどき共働きなら、わりと皆そうしてるんじゃないですかね」
「そうだな」課長が凪島の言葉を引き取って続ける。
「子どもができたあとだと、生活費の全体像を管理しやすいってんで、片方の口座に給料まとめて入れて、もう片方にはおこづかいだけ渡すとかさ」
「へえ……」
「月三万とか五万とか、ランチ代込みでって感じだな。高めにしても交通費を含むとか、飲み会は別枠とか、細かく決めるけど」
生活の見通しを立てるための工夫か。
一つの口座でまとめて管理すれば、月ごとの収支を把握しやすい。無駄遣いが減るし、貯蓄計画も立てやすくなる。
二人分の収入を合わせるとクレジットカードや住宅ローンなどの信用枠が広がるだろうし、そういうスケールメリットもあるのだろう。
「それなら、結婚したら財布は一緒にするものなのかな?」
「いや」否定から入ったのは凪島だ。
「財布は分けるのが普通じゃないか? 家賃や水道光熱費は割り勘で、とか」
彼の言葉に、課長はちょっと苦笑いをした。
「ああ。そういうやつね。あれは合理的だけどな。子どもができると破綻しやすい」
「そうなんですか」
おれも少し考えてから、口を開く。
「奥さんが産休とか育休に入ったら、収入が不安定になりますもんね」
「そ。うちも最初それやってたんだけどね。結局、生活費はまとめたほうが楽だったな。給付金も二ヶ月おきにしか入ってこないしさ。負担でかすぎるってことで」
それを聞いた凪島は肩をすくめてコーヒーをすすった。
「結局はパートナーと話し合えるかどうかじゃないですかね」
「その通り。ちゃんと話しとかないと、あとが怖いぞ」
「なるほど。参考になります」
「参考になります?」
おれの言葉に課長が声を上げて、身を乗り出した。
凪島も視線を上げたが、紙ナプキンで口元を拭っただけだった。
「なんだ鷹津、おまえ結婚すんのか? そういう予定あったっけ? 彼女いるなら先月のバーベキューに連れてきてもよかったのに」
苦笑で乗り切ろうとするおれをちらと見ながら、凪島が口をはさむ。
「富久谷課長、それパワハラですよ。いやセクハラかな」
「そ……そうかな」
「そうです」
構いませんよ、という言葉は自然におれの口から出てきた。
「秘密ってわけじゃないですから。でも、なんて言えばいいのかな……」
「あれか。付き合いたてか?」
「……うーん。まあ、そう言えますかね」
言葉を探したが、それ以上は出てこなかった。おれ自身が、思歩との関係にまだはっきりとした名前を与えきれていなかった。
一通り話が終わり、昼休みが終わるよりも五分早く、課長と凪島は先に食堂をあとにした。
おれはひとり、残ったコーヒーを飲み干す。
冷めた液体が喉を通っていく喉に、かすかな居心地の悪さが残っているのを感じる。
それが一体何なのか。それもまた、うまく言葉にならなかった。
だが、これではっきりとしたことがある。
お互いの関係に名前すらつけられないままで現状維持に持ち込むのは、悪手だ。
曖昧にしたまま放置すれば、後で必ず軋む。
歪みに気付かないふりをして関係を続けるくらいなら、今ここで動くべきだ。
次の一手を打たなければ。
おれは立ち上がりながらLINEを開き、思歩にメッセージを送った。
『今日の夜、電話してもいいかな。週末の予定を聞きたい』




