1.一人前の条件
子どもの頃、〈家族〉といえば給食の献立みたいなものだった。
机に座っていれば出てくるもの。カレーの日はうれしい。苦手なものがあると、ちょっとだけがっかりする。そんなささやかな、だが当時の自分には大ごとだった感情のもとだ。
何より、みんな同じものを食べてるんだろうと、漠然と信じていた。
まさか、大人になって、こんなに慎重に噛みくだかないといけない単語になるとは。
〈家族〉。今やそれは、アレルゲンまみれで迂闊に手を出せないメニューになっていた。
*
「時仁さん、そろそろ結婚とかどうなの?」
帰省をしてから最初の朝だった。
母の問いかけに、父が新聞を開いたまま「そうだな」とうなずく。真顔の先にあるのは天気予報欄だった。どうにも気が抜ける。
「そんな、急に言われても」
おれは湯気の立つ味噌汁に視線を落とした。隣には卵焼きに焼き魚、白米、ぬか漬け。学生時代からほとんど変わらない朝食だった。
母は箸を動かしながら、こともなげに言う。
「お正月にも言いましたよ」
「去年の夏も言ってたな」と父が続ける。
「あと、あなたの就職決まった日にも」
まったくその通りだった。言い返すのもなんだか大人げない気がして、余計に黙ってしまう。
「あなたもう三十でしょう?」
「二十九だよ。息子の年齢をどんぶり勘定しないでくれる?」
冗談めかして言ったつもりだったが、母はさらりとかわしてきた。
「うちは代々、早めに所帯を持つ家系なのよ。お兄ちゃんも、あなたくらいの歳にはもう結婚したんだから。お姉ちゃんたちはもっと早かったでしょ?」
それも事実。魚の背骨を剥がし取りながら、おれは軽く息をついた。
おれには十歳差の兄と、六歳離れた双子の姉がいる。三人とも結婚しているし、上の子たちはすでに小学生だ。
「曾祖父が言ってたろう。『家族を持って初めて、人間は社会の中で数えられるのだ』ってな」
父が神妙な顔で言った。今度は朝刊付属の子ども向け新聞をめくっており、説得力は五割減といったところだ。
「そんな、国家資格じゃないんだからさ」
「違うのよ。社会的な意味での……その、ほら。ね?」
「〝ほら〟で済ませるのずるくない?」
「だって、ねえ。家庭を持つとね、人間としての責任感が出てくるのよ」
バカバカしい。だが、ここで本気の反論をするとあとが面倒なので、おれは沈黙を選んだ。
父にとっては、おれが海外の政府機関と折衝していようが、三カ国語の契約書をレビューしていようが、それは単なる職務の一端に過ぎず、人間としての成熟とはまるで別問題らしい。
母に至っては、「お嫁さんを連れてきたら、家も明るくなるのにね」と、ドラマの感想でも述べるような気軽さで言う。
休みにもかかわらず、ずっとメールが溜まっていっているのが、スマホの振動でわかる。そんな生活をもう何年も前から続けているというのに。
だが、それでもこの家ではまったく一人前とみなされないのだ。
独身だから。
おれの心境を知ってか知らずか、母がふぅ、とため息をつく。
「このままずっと独りでいたら、将来が不安でしょう? 病気になったときとか」
「それはね。まあ、不安だけど。友だちもいるし」
「お友達がいるのは素敵だけど、家族がいれば病院の人も『ああ、この人には帰る場所があるんだ』って安心するものよ」
いや、病院の人はふつうに治療を優先してくれると思うけど。帰る場所の有無まで気遣ってもらうつもりはない。
だが、たぶんそういう理屈じゃないんだろう。
「帰る場所ならあるって。実家が」
いかにも女親の喜びそうなセリフを吐いてみるが、母は「そういうことじゃないのよ」と首を横に振った。
代わりに、父が口を開く。
「うちはそういう家だ。代々、男は家を持って、一人前として通ってきた」
反論は山ほど浮かぶ。
だが、口には出せなかった。出したくなかった、というほうが近いかもしれない。
否定すれば、この人たちの過去を否定することになりそうで。おれを育ててくれた時間も、費やした金も、すべてが報われなくなるような気がして。
何ひとつ、不自由のない生活だった。
おれのやりたいことを、やりたいようにやらせてくれた。
愛されてきた。……必要以上に。
善い親たちなのだ。この家なりの「正しさ」で、おれを一人前にしようと努力しているだけで。ただ、ほんの少しだけ、時代のほうが進みすぎてしまった。
「相手はいるの?」
「……いないよ」
「じゃあ、探しましょう」
そう言って、母はのんびりと席を立つ。戻ってきたときにはタブレットを手に持っていて、それをおれに向ける形でテーブルに置いた。
おれも、とくに疑問を持たずにそれをのぞき込む。
すぐに身体を引いた。
〈仮想パートナー診断〉に〈理想の家庭像シミュレーター〉。
文字をみるだけでうんざりするようなアプリが並んでいる。
「相手に求める条件は? 趣味、学歴、それとも顔? 年収はこっちで設定しておきましたから、あとは〈希望の家庭像〉だけ入力してね」
母の手作り〈婚活オススメパック〉。愛の圧力。
お膳立てが過ぎる。ここで逃げたらもっと理不尽な条件を提示されて不利になる。なら先に条件を呑ませておくしかない。
「わかった。なら、一週間は全力でやるよ。その間に〈顔合わせ〉まで行かなければこの話は帳消し。それでいいなら今すぐ始める」
おれはそう言って、スマホと財布を手に立ち上がる。
「あら、どこいくの?」
「散歩。婚活ついでに、うちの看板でも拝んでおくよ」
皮肉まじりの言葉を放り、リビングを後にする。
靴をつっかけ、なんとなく外に出る。
朝の空気はぬるく湿っていて、夏の終わりが近いことを感じさせた。
看板――表札には一瞥もやらず、コンビニへ向かう。
歩いて三分。考えごとをするには、少し短すぎた。