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第五話


 二年前。小さなバーで。二人でウィスキーを傾けながら。


 トッドは、レジーの半生を聞いた。壮絶な彼の人生。


 レジーは、八歳のときに母親を亡くした。他殺だった。惨殺された。彼の母親が夜の仕事に出掛け、その帰りだった。


「俺は、ママがどんな仕事をしていたのかなんて知らない。ただ、ほとんど毎晩、仕事に出てた。あの環境で、女手一つで俺を育ててたんだから、大変だったんだろうな。今なら、ママがどんな仕事をしていたのか、概ね想像がつく。まあ、想像が正しいかは知らねぇけどな」


 その夜も、レジーの母親は、いつものように仕事に行こうとしていた。夜の八時。そこから明け方までの仕事。


「レジー、いい子にしててね。絶対に外に出ちゃ駄目だからね。早く寝るんだよ」


 仕事に行くときに、ママが必ず言うセリフだった。レジーが住んでいた地域は、治安が悪い。そんな環境でも夜に仕事に出る必要があるほど、レジーの家は貧しかった。


 貧しかったのに、レジーは、食事やおやつに不足したことがない。それだけ母親が頑張っていたのだと、大人になってから知った。


 でも、当時のレジーは、八歳の子供だった。母親のことが大好きで、いつも一緒にいたかった。


 特にその晩は、母親から離れたくなかった。離れてはいけない気がした。


「ママ! 行かないで!」


 いつもより大きな声で、いつもより強くしがみついて、レジーは母親を止めた。


 母親のことを語りながら、レジーはグラスを傾けた。苦笑を型取った口。どこか投げやりな目元。


「……霊感なんて信じちゃいねぇけど、たぶんあれが、第六感ってやつなんだろうな。その晩はとにかく、ママを仕事に行かせちゃいけない気がしたんだ」


 それでも、生きていくには金が必要だ。金を稼ぐには、働くしかない。


 母親は困ったような顔で、レジーの頭を撫でた。そのままスニッカーズを取り出し、レジーに握らせた。スニッカーズを持ったレジーの手を、自分の両手で包み込んだ。


「ママはね、レジーにたくさんご飯を食べさせたいの。お菓子も、好きなだけ食べさせたいの。だから、お仕事しないと駄目なの」


 レジーの手の中にある、ママがくれたスニッカーズ。

 スニッカーズを握るレジーの手を、包み込むママの手。


「ママ、お仕事頑張ってくるから。ちゃんと戸締まりして、早く寝て、ママの帰りを待っててね」


 それが、レジーが最後に聞いた、ママの言葉だった。

 レジーが最後に見た、ママの姿だった。


 翌日早朝。

 レジーの母親は、遺体で発見された。体中を、アイスピックで滅多刺しにされていた。


 ◇


「ママが、彼氏を連れて来たんだよ。結婚したいんだってさ」


 アメリカン・ダイナー/アフタヌーンティー。

 トッドが、セラと訪れた店。

 夜のバーの時間。

 カウンター席の右端。


 イーサンは、怒りとも自棄とも言える表情を見せた。


「今まで俺達は、ふたりだけで生きてきたんだ! 俺は、何よりもママを大切にしてきた! 仕事をして金を稼いで、ママに何か買いたかった! 自分の小遣いなんてどうでもよかった! ママが少しでも楽できるように、給料のほとんどを家に入れてた!」


 バンッ。イーサンが、カウンター席のテーブルを叩いた。


「でも、ママは、俺とは違った……」


 大声の直後の、泣きそうなイーサンの声。


「ママは、俺より男を取ったんだ。だったらもう、俺はいらないだろ」


 イーサンが自暴自棄になっているときに。タイミング良く、薬物を売っている男と知り合った。家に金を入れる必要はないと思えたので、給料は、すべて彼の手元にあった。


『嫌なことなんて、全部忘れられる。いい気分になれる薬だ』


 薬物の売人の言葉は、イーサンにとって救いだった。嫌なことなんて、全部忘れられる。


 それがどんな薬なのか、イーサンにも分かっていた。分かっていたが、どうでもよかった。実際に薬物を使うと、いい気分になれた。意識が一気に覚醒し、特に理由もないのに幸せな気分になれた。


 だが、薬が切れると最悪だった。彼氏とセックスをしているママが、目の前に表れる。ちらりとイーサンを見て、どうでもいいというように目を逸らして。そのまま彼氏と見つめ合って。嬌声を上げながら、彼氏との情事に耽る。最悪の幻覚。


 今までメタンフェタミンを使用したのは、一回だけ。一回だけだが、切れたときの苦痛に耐えられなかった。もう一度、あの幸福感に包まれたかった。何もかも忘れたかった。幸福感以外、何も受け付けたくなかった。


 今日も売人から薬物を買って、この店に来た。


「この国は自由だ。生きるも死ぬも、拾うも捨てるも。俺はママに捨てられた。だから自由に生きるんだ!」


 トッドがこの店に入ってから。

 頭の中に、何度もレジーの姿が思い浮んでいた。彼を連想させる事柄が、次々と目の前に現れた。


 ――でも、違う。


 胸中で、小さく呟く。レジーとはまるで違う。トッドは不機嫌を隠さず、何度目か分からない舌打ちをした。セラの肩を優しく押して目の前からどかせると、イーサンの前に立った。


 イーサンがトッドを睨んできた。


「俺のことは話したぞ。酒とケースを返せよ」


 トッドは、右手のグラスをイーサンの頭上に掲げた。そのまま、グラスをひっくり返した。


 バシャッと、イーサンの頭に酒がぶちまけられた。


「何しやがる!?」


 髪の毛と顔を酒で濡らしながら、イーサンが激高した。


 イーサンの怒鳴り声を無視して、トッドは、空になったグラスをテーブルに置いた。空いた右手で、彼の胸ぐらを掴む。腕に力を入れる。手を上に引き上げる。身長差のせいで、イーサンがつま先立ちになった。


「甘ったれるな、クソガキ」


 トッドが育った家庭は、裕福ではないが貧しくもない。両親も揃っている。いわば普通の家庭だ。だから、命を削るほど働かなければ生きていけない貧しさも、危険な時間帯に働きに出なければならない理不尽も、経験がない。


 トッド自身に経験はないが、知ってはいる。大好きな母親が命懸けで働き、そのせいで、幼くして母親と引き裂かれた男を知っている。


 レジーは、母親のことを大切に想っていた。大切に想っていたから、母親を失った痛みを忘れられず、薬物に走った。


 けれど、レジーは……。


 イーサンの胸ぐらを掴みながら、トッドは彼を引き寄せた。強い視線で睨み付ける。


 突如強い力で引き付けられて、イーサンは涙目になった。明らかな怯え。


「お前は、自分の弱さの理由を、母親のせいにしてるだけだろ。薬物に走ったことを、母親のせいにしてるだけだろ」


 レジーは薬物に走った。けれど、決して、自分の弱さを母親のせいにはしなかった。自分を育てるために、母親がどれだけ必死だったかを知っていた。


 レジーと親しくなってから、トッドは、彼の試合の映像をいくつも見た。彼はいつも、トランクスに母親の名前を刻んでいた。それはまるで、「ママのお陰でこうして生きていられる」と、母親に伝えているようだった。


「お前が薬物に溺れて死んだら、お前の母親は何を思う? お前が死んだのは自分のせいだって、後悔し続けるだろうな。お前が薬物に溺れて犯罪に走ったら、お前の母親は何を思う? 自分の愛情が足りなかったのかと、後悔するだろうな。身を削って働いて、ずっとお前のためだけに生きていたのに。お前がガキじゃなくなって、ようやく自分のことを考えられるようになったのに」

「……」

「それなのにお前は、未だに、ママに依存するガキのままだ」


 イーサンの瞳が揺れた。トッドに掴まれた恐怖は、当然あるだろう。けれど、それ以上に強い感情が見て取れた。


「お前は、母親の何を見ていた? さっき、母親にプレゼントを贈っただの何だのって語ってたな。じゃあ、お前は母親に何をしてもらった? お前のために、お前のママは、どれだけ身を削っていた?」


 レジーを連想させるものが多かった。でも、彼とはまるで違っていた。


 レジーは、自分の家族のために命を賭けられる男だ。だが、母親を亡くしたとき、彼はまだ幼かった。母親のために命を賭けることなどできなかった。


 だから、大人になったレジーは、妻や息子のために命を賭けるようになった。まるで、自分のために身を削っていた母親のように。


(続く)

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